行間に滲む医師らの苦悩 2

前回、Cowan医師の「この家族には、そんなことは言えない」という意味深な発言を紹介しましたが、もう一人、シアトル子ども病院の神経発達プログラムのディレクターであるJohn McLaughlin医師も、同じ記事の中で病院内に相当な反対意見があった事実を明かした後で、重大な発言をしています。

In the end, the parents’ articulate and assertive approach to wanting this done is what carried the day for that one child. However, most of us have major reservations about it for anyone else.

結局、両親がこれをやってほしいと説く能弁と熱心(強硬?)な姿勢が、「その子1人については」その日の議論を決めたことになったけれども、「他の子どもについては」ほとんどの人が大きなためらいを抱いている、というのです。that one child というのは非常に興味深い表現です。ここには、「この子についてだけは認めてあげよう」とのニュアンスがありはしないでしょうか。

そういえば、医師らの論文の中にも、次のような記述がありました。

The committee also recognized that, although justified in this patient, growth attenuation should be considered in future patients only after careful evaluation of the risks and benefits on a case by case basis.

この患者においてはジャスティファイされるものの……」。どのようにジャスティファイされるのかの説明は例によって皆無なのですが、なぜか「この患者ではOKであるものの、今後の患者については慎重な評価の後にのみ検討するべき」。この文脈では、「この患者については慎重な検討をしなくてもOKだけど、今後の患者はそうすべき」とも読めてしまうのですが、それはともかく、ここでも「この患者」には「今後の患者」とは違う特殊な位置づけが感じられないでしょうか?

Cowan医師は「この家族に向かって、間違っているなんて言えない」と言い、McLaulin医師は「親が強力に主張したから、この子についてだけはやらせてあげようということになった」と言わんばかり。論文でも、理由は分からないものの「この患者ではジャスティファイできるが今後は……」。

この家族、この子一人、この患者……そういえば、論文も異様なほど親を意識して書かれていました。アシュリーの親と医師の関係性にも、通常の患者または家族と医師の関係性からすると不可思議なことが沢山ありました。(「親と医師らの関係性の不思議」の書庫を参照してください。)

この事件に関する資料を読むと、常に疑問に思われるのは「なぜアシュリーの親は医師に対してこれほど強いのか」という点、「なぜ医師らの意識の中で、こんなに親の存在が大きいのか」という点なのです。

アシュリー一家は、いわば特殊な、むしろ例外的な家族なのではないでしょうか。
そして、そのことが倫理委員会を“初めから結論ありき”にしたということは、ありえないのでしょうか。