倫理委を巡る不思議 ⑤委員長の意識

ところで倫理委の実際の委員長は、ずっと表に出てきませんでした。そのこともまた、Diekema医師が委員長だったのだとの私の誤解を助長したように思われます。しかし、委員長はシアトル子ども病院トルーマン・カッツ小児生命倫理センターのDavid Woodrum医師です。Diekema医師と同じ所属になります。

Diekema医師は一貫して両親の要望を支持する立場に立ち、このケースの正当化こそ倫理カウンセラーとしての自分の役割なのだといわんばかりの活躍ぶりですから、委員長が彼とは別に存在したというのは、むしろ倫理委の議論の中立性を保障しているかのように思えます。

ところが、WUのシンポに姿を現した倫理委の委員長Woodrum医師は、思いがけない言動を見せる人物でした。なによりもまず、当日登壇した多くのパネリストの中で際立っていたのが、同医師の“態度の悪さ”。座っている姿勢からして「ばかばかしくて、やっていられるか」といわんばかりの態度。誠実な議論をしようという姿勢よりも、このような事態の展開がにがにがしくてならないという苛立ちが露骨でした。発言内容はDiekema医師と同じ立場ですが、批判的な意見に反論する際の口調は非常に攻撃的でした。居直ったかのような、また挑発的な響きの発言が多かったように見受けられました。もちろん自分が委員長を務めた倫理委の決定が問題視されているのだから防衛的になるのは当たり前かもしれませんし、もともと攻撃的な性格の人物なのかもしれません。が、逆にまた、それだけ脅かされ追い詰められているのかもしれません。

このシンポにおいて、Woodrum医師は居直って会場を舐めてかかるような挑発的な発言をした際に、倫理委員会の委員長としては実に驚くべきことを言います。

WUのシンポについては当日傍聴・発言された小山さんの詳細な報告がありますから、その報告からWoodrum 医師の発言を2つ引用してみます。

私は両親の味方であって、裁判官の味方でも法律家の味方でもない

(倫理委でのプレゼンで)両親が説得力ある議論を出してくれたおかげで、私たちの仕事を変わりにやってくれた

いずれも、この医療処置の妥当性を検討しゴーサインを出した倫理委員会の委員長の言葉なのだということを念頭に読んでください。

倫理委員会の委員長が「両親の味方」という言葉を口にしていることは、非常に興味深い現象です。小山さんが報告で書いておられるように、これはホンネがこぼれ出たものだと私も考えています。この発言には、3つの問題があるのではないでしょうか。

まず1つには、小山さんが当日会場から発言・指摘されたように、Woodrum医師の意識には患者が不在です。アシュリーのケースを検討するために招集された委員会の委員長の意識の中で、患者であるアシュリーは不在だったのです。ちょうどDiekema医師にとってアシュリーが透明人間であったように、彼らの意識にあったのはアシュリーではなく両親だけだったということでしょう。

2つ目の問題は、発言の後半でセーフガードが否定されていることです。委員長がセーフガードの必要を認めない「倫理委員会」では、倫理委員会そのものがセーフガードとしての機能を持ちえないことにならないでしょうか。

さらに3つ目の問題。 前回のエントリーでは、Diekema医師が担当医でありながら倫理委の内部にいることの不思議を指摘しましたが、今度は倫理委員会の中立な議論を保障する責任者であるはずの委員長が、自分は検討を申請した側の担当医と同じ立場だと表明しているのです。どのような医療を巡る検討であれ、委員長が初めから「やりたがっている担当医の味方」という立場に立っていたら、その倫理委員会は存在意義をなくすのではないでしょうか。

そして後者の「親が説得してくれて、自分たちの仕事をしてくれた」という発言。アシュリーのケースを検討するための倫理委員会の席で、委員長は「両親の要望が認められるように倫理委員会を説得すること」が自分の仕事だと認識していたことになります。担当の倫理カウンセラーだけでなく、委員長までが「両親の要望が認められるように出席者を説得しなければ」との意識で臨む倫理委員会……?

2004年5月5日の倫理委員会は、いったい何の目的で招集されたものなのでしょうか。果たして、本当に「倫理委員会」と称するに値する場だったのでしょうか。