倫理委員会についての主要記事要旨

前のエントリー( http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/7325845.html)で紹介した2つの記事の要旨を以下に。

これらの記事を読むと、倫理委の「コンセンサス」がシンポで言われていたようにすっきりしたものでもなかったことが伺われます。

Salon.com (2月9日 Behind the Pillow Angel)

・Dr.Charles Cowan、シアトルこども病院の発達小児科医、アシュリーの主治医の一人で、倫理委のメンバーではないが当日、委員会の席にいた。「非常に複雑な議論で、誰もが感情的になっていました。Nobody was cavalier about this. ある面では、みんな家族のためになんとかして上げたいと思っていました。重症児の場合、子どもの利益は両親と重なりますから」が、治療を支持するかという点では「自分の直感にそむいて、親の望みを聞きいれ、子どもにこういうことをやるというのは難しいことでした。」(注:ワシントン大のシンポ午前の部でモデレーターをしていたCharles Cowen医師と同一人物と思われます。WPAS調査報告書に添付された倫理委員会の記録によると、やはりCowan医師が意見陳述に立ったとされており、名前の不一致については、いずれかがミス・タイプということでしょうか。)

・親からの要望を受けてシアトル病院の医療ディレクターが倫理委を召集した。メンバーはシアトル子ども病院とワシントン大学医学部の職員で、医師、看護師、行政職員、ソーシャルワーカー(以上それぞれ複数)、倫理学教授一人、病院牧師一人、弁護士一人の計18名。倫理委の名前は非公開。議論の記録も公開されていない。

・委員会が開催されたのは2004年5月4日。最初にアシュリーの両親がパワーポイントを使って彼女の生活を紹介、なぜ希望するかという理由を説明した。両親が話した内容の記録は存在しない。(注:WPASの調査レポートによると5月5日なので、日付については間違いのようです。)

・委員会のメンバーは車椅子に乗ったアシュリーに会い、彼女と両親とのやり取りを観察。父親の声に反応する様子を見た。「この少女に会って、日常生活がどういうものかa little slice of what her life was like を知らなければね。アシュリーの生活が相当に小さなもので、ほぼ家族との生活がすべてだというのは明らかです。グラウンドを走り回ったり、デートするという話じゃない。アシュリーの生活というのは生後3ヶ月の生活のようなものです」とSalonの取材にDr.Diekema 。

・アシュリーと両親が退出した後、委員会は2時間の議論を行った。最後に手を上げて決を採ることはなかったが、議論は複雑で、その場には緊張が満ちていた。
(注:以下の1月5日のGunther 発言と、WPASの調査報告書に添付された5月5日の倫理委の記録からすると、アシュリー一家の退出までが1時間、その後委員のみの協議が1時間ということだったようです。)

・「易しい答えはありませんでした。最初はどうするべきかみんなの意見が食い違った。でも、色んな意見を聞き、討論し、議論し、最後には両親にやらせてあげようというところにほぼ一致していったんです。部屋を出るときには誰もが確信が持てなくて、どこかでこれで本当にいいのかという気持ちを持っていた。でも、間違いを犯したという気持ちで部屋を出た人はいない。害が起きる可能性よりも利点があるだろうと考えましたから。あそこで一番乗り気でなかった人でも、(最後には)少なくともa draw (害と利点が差し引きゼロという意味?)だと感じていたと思います」とDr.Diekema.

・連邦医療法の患者のプライバシー保護の点から、病院と倫理委での議論からは一般の人がはずされた。が、そのために一般に議論のニュアンスも複雑さも伝わることがないまま前例となることに懸念を抱く医師もいる。

・John McLaughlin,同病院の神経発達プログラムのディレクター、「このアイデアにあまり良い気持ちでない人も何人かいたし、まったく反対の人もいました。結局、両親がこうしたいとはっきり強く求めたことが、この子に対してのみ、その日の議論を決定したということです。が、他の子に関しては大いに慎重であるべきだと我々の多くは考えています。私の結論としては、今回のことは障害のある子どもに対して善意からではあるが思慮の足りない処置がされてしまった例です。」

・Gregory Liptak,  Upstate Medical University at Syracuse, professor of pediatrics アシュリーのような発達障害児を診ている。アメリカ小児科学会障害児委員会のメンバーでもある。「一線を越えていると思う。What they did to this child takes away her personhood. アシュリーは人間であり、あなたや私と同じように正常な発達も性的な喜びも経験する権利がある。」「これは、とても激しい医療です。手術で死ぬ子どもは毎日出ている。手術で重篤な感染を起こしたり、出血があったり、それで回復できずに死ぬことがあるのです。私にいわせれば、ここでの利点よりもリスクの方が大きい」

・Dr.Mark Merkens, Oregon Health and Science University in Portland の神経発達専門医は、非医療的問題を補うのに医療行為で当てるのは問題と。アシュリーは病気ではないし、痛みがあったわけでもないのに、基本的には介護の問題であることを“医療化”している。「ちょっと過激ですね。発達抑制はともかくとして、子宮と乳房芽の摘出は bordering on mutilation。唖然とします。」

・Cowan(前述)、アシュリーが自分で意思決定できない以上、親が子どもの最善の利益を考えて愛情からやることだから、との趣旨の発言に続いて、「この家族に向かって、“その考えは間違いです。あなた方にとってもお子さんにとっても何が一番いいか知っているのは自分たちの方だ”なんて言えませんよ」

・が、Merkensは、どんなに子どものために良かれと思っていて、どんなに能力の高い親であるように思えても、親が子どもに関してそんな決断を下すことを自分は絶対に認めないという。

・Merkensを始め他の医師や倫理学者が懸念するのは、この症例の肝心な詳細が伏せられていること。発表された論文で、重要な詳細ポイントが明らかにされていない。例えば、論文に書かれているように、すでに本来の最終背丈の85%まで達していたとすると、ホルモンで抑制できるのは、ほんの数インチと、Dr.Robert Nickel,Oregon Health and Science University in Portland の発達小児科医。「本当の問題は:この療法に利点があるのかという点。私だったら、もうちょっと様子を見たら、と言っていただろう。子どもの背は、放っておいてもそこまで伸びなかったかもしれない」

・Dr.Christopher Feudtner ペンシルバニア大学の小児科医・倫理学者。「全体として、アシュリー療法は実際よりも利点が大きいように言われている。これは問題。虐待に繋がる可能性がある療法なのに。」

・McLaughlinによると、シアトル子ども病院には少なくとも3家族から希望が出ている。Liptakも先週、シラキューズの患者の母親が9歳の重症の娘に希望を申し出たという。Liptak自身は反対だが、倫理委員会にかけると同意はしたという。

・倫理委の議論の詳細が明らかにされないことを懸念する医療関係者もいる。Feudtner 「裁判官が判決理由を公開せずに評決を下すようなもの。仮にそうでなかったとしても、内部合意や討論を監査・検証できる記録がないということは、安易な決定をしたのだという感じを残す」


Seattle Post-Intelligencer (1月5日)

・Dr. Gunther の発言では、倫理委は15人から20人で、医師、看護師、ソーシャルワーカー、チャプレン、それから地域の人たちも含まれていた。親の話を聞いて医療面の話を聞き、それから委員が1時間話し合って、反対ではないということになった。

・UWのTreuman Katz Center for Pediatric Bioethics のDr. Benjamin Wilfond:倫理委員は決定するわけではない。問題があれば決定するのはメディカル・ディレクター。通常多くのケースは5人いる倫理問題の専門家のいずれかのところに行く。Wilfond一人で月に3,4件扱い、同僚で検討するために月ごとのまとめ文書を作る。完全なかたちの委員会に出すアシュリーのようなケースはまれ。

追記:誰も「賛成」とか「やってもいい」というコンセンサスに至ったとは言っていないのです。むしろ「反対ではない」という非常に消極的なコンセンサスだったというニュアンスでしょう。Diekema医師ですら「ほぼ一致」といっています。しかも「両親にやらせてあげようということで、ほぼ一致」と。この言い方には、あの「両親は乳房芽が切除されることも望みました」という言い方に共通するものがないでしょうか。

追記2:Diekema医師は「ラリー・キング・ライブ」では「I can tell you that there was no one in the room who disagreed with the decision その決定に非同意の人はあの部屋には一人もいなかったということです」といっています。いつもながら、微妙な言い方をする人です。同じ番組で自分は信仰心が厚いほうだと語ってもいるので、よほど嘘はつきたくない人なのでしょう。しかし、この人はそのために、「語るに落ちて」しまっていることも多いように思われます。