NDYのDian Colemanによる自殺幇助合法化批判

8月1日の補遺で拾ったNot Dead Yet のDian Colemanの自殺幇助合法化批判の論考が
同じ媒体で再掲されていたので、

暑いし(体を動かして何かをしようという気が起こらない)、
突然に時間がぽっかりできたので、気ままに訳してみた。


終末期の人への自殺幇助を合法化する法案の提唱者は
障害者団体の反対意見は的外れだと主張する。

しかし、障害者はたいていの場合は終末期ではないが
終末期の人はほとんどの場合、障害者である。

それならば、この複雑な問題に
障害のある人の視点が洞察を提供できる
多くの理由の一つがそこにはある。

障害のある人々と慢性病の人々は
死にゆく人をケアする(悲しいことに十分なケアになっていないことが多い)医療制度の
最前線に生きている。

我々は最初に危険を察知して警告を発する
「炭鉱のカナリア」だといってもよい。

自殺幇助のアドボケイト組織は自らのことを
宗教右派」に対抗し自由を求めて闘う「思いやり深い進歩派」として描いてみせるが、
そこでは不都合な真実が無視されている。

それらは、障害者アドボケイトにはあまりにもなじみの深い真実である。例えば、

・誰かの余命が6ヶ月であるという予測はしばしば誤っている。

・死にたいという人はたいてい治療可能なうつ病である、と同時に/または、
十分な緩和ケアを受けられていない。

・医療費削減へのプレッシャーがかかる現在の政治状況では、
医師の幇助による自殺を「治療」の選択肢に含めるべきではない。

・高齢者と障害のある人々への虐待は増加しているが、
発見されないままになっていることが多く、
教唆があったとしても、見抜くことも予防することも事実上不可能である。
政治家(立法者)が検討すべきなのは推進派の善意の意図ではなく、
自殺幇助法の文言と実施である。

誤った診断に基づいて死が避けられないと予測されながら
生きのびた経験を持つ障害者は数え切れないほどいるが、私自身その一人として、
終末期の予後の正確さによって決まるのが自殺予防ではなく
自殺幇助を認めるかどうかであるということに懸念を感じないではいられない。

自殺幇助法の規定によって出されるオレゴン州の年次報告書そのものが、
終末期でない人々に致死薬が処方されていることを示している。
自殺幇助の要請から実際に死ぬまでに最高1009日が経過しているのだから。
年次報告書が隠していることの1つが、
6ヶ月を超えて生きた人が具体的に何人いたか、という情報だが、
それらの人が致死薬の処方を希望した段階で
障害者ではあったが終末期ではなかったことは明らかである。
もう一つわれわれが知っているのは、
こういう場合にも、また自殺幇助の過程でその他の過誤があった場合にも、
幇助した医師には何も責任を問われていない、ということだ。

推進派はオレゴンの15年間のデータから、
任意性を保障するセーフガードが機能しているとも主張する。

どうして分かるのだろう? 
オレゴンの報告書に書かれているのは、
処方箋を書いた医師が報告している患者の自殺幇助希望の理由だけだし、
その理由にしても、州政府の申請書に挙げられている7つの理由の選択肢から
複数回答可能でチェックを入れたものに過ぎない。

その7つのうちの一つ、
他者への負担となっていると感じるから、という理由にチェックを入れた人は、
去年報告されている自殺幇助事例の57%だった(全報告例では39%)。

しかし、
家族介護者の負担を軽減できる在宅ケアの選択肢をディスクローズすることは
同法のもとでインフォームドコンセントには含められていないし、
ましてその選択肢のケアを提供することも、
その資金を提供することも同法では義務付けられていない。

オレゴンの報告書は、
セーフガードがどの程度守られているのかは州にも掴めないことを認めているが、
中立の論文で個々の事例でセーフガードが機能していないことは報告されている。
(例えば、Hendin and Foley’s “Physician-Assisted Suicide in Oregon: A Medical Perspective,” Michigan Law Review, June 2008 を参照のこと)

しかし同法には
セーフガード条項を調査する権限も監督する権限も含まれていないため、
結果として何も行われていないのである。

高齢者虐待の多くが発見されず報告されていないことは、よく知られている。
確かに、虐待の危険のない高齢者もいるだろう。
しかし、ニュー・ジャージー州では報告されているものもされていないものも含めて
毎年17万5千件以上の高齢者虐待が起こっていると推計されており、
多くの高齢者は安全ではない。

自殺幇助への教唆がないことを保障するために法は2人の証人を求めているが、
その2人は本人を直接知っている人物でなくともよく、
また一人が相続人であってもかまわない。法の文言では、
家族の誰かが自殺幇助を「選ぶ」ように提案したり強く勧めることを防ぐことはできない。
致死薬がいったん家に持ち込まれれば、
中立の人が証人として見届けることは必要とされていないのだから、
薬が飲まされた時に本人の同意があったかどうか、
いったい誰に分かるというのだろう?

医療は我々の誰もが必要とするものである。
家族が常に愛情に満ちて支えようとするわけでもないのが現実世界だ。
その両方に影響する公共施策を議論するに当たって、政治家(立法者)は
自殺幇助の合法化によって大きな現実のリスクを負うことのない安全な人だけではなく、
すべての人のことを考慮する義務がある。