「障害は不幸か」議論の危うさについて

某所で「障害は不幸か」「障害は不便か」を巡って
議論が交わされているのを見て、考えてみた。

ピーター・シンガーのDNAを持ち、
生殖補助医療で大金持ちの家にそこそこ健康に生まれ、
3歳の時に、事業に失敗した父親が自殺、一家はジリ貧に落ち込み、
10歳で母親が再婚してかろうじて生活はそこそこになったけど、
その代わりに義父から酷い虐待を受け続けて成人することになった人は――?


本当に問うべき問いは
「なぜ『障害は不幸か』という問いだけが、死なせることや殺すこととの繋がりで問われるのか」では?

「障害は不幸か」議論の危うさは、
その問いの設定枠内に参加者の視野を限定し、
他に問うべきものを見えなくすることにあるような気がする。

私自身は、障害については、

人が人生を生きていく過程で、
誰の責任でもなく、どうにも避けがたく見舞われることがある、
数え切れないほどの種類と形態と大きさの「不運」の一つ、

と、とりあえず考えていますが、
最終的な結論ではありません。

結論なんか出ません。

また、
結論を見いだそうとする方向で議論すべき類のことではないように思います。