「重症障害者は雑草と同じだから殺しても構わない」と、生命倫理学者らが「死亡提供ルール」撤廃を説く

The Journal of Medical Ethics のオンライン版で
デューク大の Walter Sinnott-ArmstrongとNIHのFranklin G. Millerが共著論文を書き、
DCD(人為的心臓死後臓器提供)推進のためにデッド・ドナー・ルール(死亡者提供ルール)の撤廃を
説いているらしく、

それについてBioEdgeのMichael Cookがエントリーを書いているのだけれど、
2人の正当化論の乱暴さに心が折れそうになった。

基本的にはこれまでFostやTruogが説いてきたような
「どうせ今でも拍動が戻る可能性を考えると
DCDのドナーは臓器摘出時に死んではいないわけで
現場では死亡者提供ルールなんて頻繁に違反されているのだし、
死ぬ人間をドナーにせず助かる命も助からなくなることを考えると、
いっそのことルールの方を撤廃すればよい」というもの。

ただ、そのために著者らは
「殺すことは悪だ」という規範さえ棄てればよい、と説くのだけれど、

それを正当化する彼らの理屈は
「生きていると言えるだけの能力のない人は殺しても構わない」から。

命はそれ自身が神聖なのではなく、生と死を隔てる唯一の違いは能力の有無。
脳に損傷を受けた人は能力を失っているのだから殺してもよいのだ、と。

Cookが引用している個所を以下にピックアップしてみると、

killing by itself is not morally wrong, although it is still morally wrong to cause totally disability.

殺す行為そのものが道徳的に間違っているわけではない。完全な障害状態を引き起こすことは依然として道徳的な間違いではあるが。

Then killing her cannot disrespect her autonomy, because she has no autonomy left. It also cannot be unfair to kill her if it does her no harm.

重い障害を負った人を殺しても、その人の自律・自己決定権を無視したことにはならない。なぜなら、そういう人には自律・自己決定権など残っていないからだ。殺すことによってその人に何の害もなされないならば、その人を殺すことは不公正にはなり得ない。

[I]f killing were wrong just because it is causing death or the loss of life, then the same principle would apply with the same strength to pulling weeds out of a garden. It it is not immoral to weed a garden, then life as such cannot really be sacred, and killing as such cannot be morally wrong.

もしも殺すことが、ただ単に死を引き起こすまたは命の喪失だから間違っているというなら、同じ原理が同じ強さで庭の雑草を抜くことにも当てはまることになる。庭の雑草を引き抜くことが道徳的に許されるならば、雑草と同じような命が神聖とされることもあり得ないこととなり、雑草と同じような人を殺す行為も道徳的に間違った行為にはなり得ない。



気分が悪くて、何も書く気にならないけど、

著者らが重い障害を負った人を受ける人称代名詞が女性形であることだけは特記しておきたい。
非常に不快だけど、これは2007年からトランスヒューマ二ストらもやっていた ↓


この2007年のエントリーで私は以下のように書いているのだけど、
この段階で私は既に本質をズバリ見抜いていたということですね。

所詮は

知的レベルが高いことを鼻にかけた白人男性の我田引水的な価値観。

要はただのインテリ・レッドネックなのでは──?