Ouellette「生命倫理と障害」概要

【18日訂正】
たぶん2008年ごろに初めて著者を知って以来ずっと思い込んでいたもので、
もはや何度見ても、そうとしか見えなくなっていたのですが、
著者の名前は Q で始まる Quelletteではなく、
O で始まる Ouelletteでした。

今日ある方に教えてもらって、やっと気付きました。
これまでのエントリーをすべて訂正するのは膨大な作業になるので
申し訳ありませんが、このエントリーから以降、正しい表記にする、
ということにしておきたいと思います。

ブログ内検索が混乱すると思いますが、
折を見て順次訂正していきますので、よろしくお願いいたします。

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だいぶ前からカタツムリの速度で読んでいる
Ouelletteの“BIOETHICS AND DISABILITY  Toward a Disability-Conscious Bioethics”の
大まかな構成が見えてきたので、それについて。


① イントロダクション
冒頭で、Ouelletteが本書を書く契機となった出来事が紹介されていて、
これがなかなか興味深い。その部分の概要は ↓

10年ほど前、OuelletteはNY州の上訴検察官として、重症障害がある女性患者の延命治療停止の決定を巡る訴訟を担当した。
当時のNY州では、その生涯に一度も自己決定能力を有したことのない患者の場合、延命治療の中止または差し控えの決定を医師にも家族にも認めていなかったが、その女性は既に明らかに末期で、栄養も水分も身体がもはや受け付けない状態だったので、経管栄養が患者の負担でしかないことは誰にとっても自明なことであり、誰が考えても中止が本人の最善の利益だと判断されるだろうと思い込んでいた。
ところが公判の当日、裁判所の前にやってきて、まるで日本の右翼の街宣車のような物々しい抗議行動を繰り広げたNot Dead Yetに心底たまげたのだという。(その時に自分が受けた攻撃や非難に比べれば、シャイボ事件の際の障害者運動の抵抗だって霞むほどだ……と書いているのは、ちょっと微笑ましい。よほど青天の霹靂で、理解の外だったのだろう)
Ouelletteは、それを機に、障害学や障害者運動の主張するところに、とりあえず耳を傾ける努力を始める。(ここがOuelletteという人が並ではない、すごいところだと思う。)
そして10年――。
今なおOuelletteは、あのNYのケースの女性にとっては栄養と水分の停止が本人の最善の利益だったとする考えそのものは変わっていないが、障害学や障害者運動の歴史や理論を学び、またその後に起きた事件をそちらの視点からも検討するうちに、生命倫理学には障害学や障害者運動から学ぶべきことがある、と感じるようになった。(そういうあからさまな表現は避けて、あくまで中立的に書かれてはいるけれど)


で、この10年間に自分が考えてきたことの総括として本書を書き、
障害者に配慮ある生命倫理学というものに向かって
双方が歩み寄ろうと提言するというのが著者の意図。

生命倫理学と障害学のこれまでの概要
イントロダクションに続く章で
生命倫理学と障害学・障害者運動それぞれの議論や問題意識、主張の変遷を概観。

同時に、どういう点で両者が際立って異なっているのか、
どこに対立点があるのかを簡単に眺めていく。

③ ケース・スタディ
3章から7章がいよいよ中心部分のケース・スタディ

ここでは、
人の生涯を「乳児期」「児童期」「生殖期」「成人期」「終末期」に分け、
それぞれの時期の障害者の医療判断を巡って両者が対立した事件をとりあげ、
生命倫理学と障害学・障害者運動から出た議論を振り返り、考察する。

幼児期では Miller事件と Gonzalez事件。
児童期では Lee Larson’s Boys事件とAshley事件。
生殖期では Valevie N.事件と、Bob and Julie Egan事件。
成人期では Mary 事件、Larry McAfee事件、Scott Matthews事件。
終末期では Schiavo事件、Sheila Pouliot事件。

私が知っているのは4つだけで、
Miller事件はどこかで何度か読みかじった程度。
(今回、本書から取りまとめたエントリーは文末にリンク)

Schiavo事件については「知っている」という程度だけど
エントリーだけは結構あるかもしれない。(以下のエントリーの最後に関連をリンク)
Terry Shiavoさんの命日の寄せて(2010/3/3)

Gonzalez事件は私が初めて遭遇した「無益な治療」事件だったので、
ものすごく印象が強く、いくつかのエントリーで触れている。
テキサスの“無益なケア”法 Emilio Gonzales事件(2007/8/28)
ゴンザレス事件の裏話
生命倫理カンファレンス(Fost講演2)
TruogのGonzales事件批判

Ashley事件はご存知のように、当ブログのテーマそのもの。

Shiavo事件とAshley事件くらいしか日本語インターネットで見かけた記憶がないので
日本ではまだあまり広く知られていない事件が多いのかもしれない。
(もちろん知られていることを私が知らないだけなのかもしれない。
そっちの確率の方が高そうだけど)

④ 和解に向けての提言
これらのケース・スタディを踏まえて、
最終第8章では、まず「和解に向けて」
互いの言い分に耳を傾け、共通のグラウンドを模索することの必要を説き、

実際に障害者に配慮した生命倫理学の構築に向けて何ができるか、
原理原則の点からの考察に続いて
濫用に対するセーフガードとしてプロセス重視を提言。

この「プロセス重視」というのは
Ashley事件を教訓にしてデュー・プロセスを構築せよという
Ouelletteの成長抑制批判論文の主張を思い起こさせる。

その上で、ケース・スタディで取り上げた事件を
「障害者に配慮ある生命倫理」で考えるとどうなるか、
再考察の試みが展開されている。

              ――――――

私は系統立てて勉強していないので
②の概要は入門的な内容で、とても勉強になったけど、

生命倫理学は、個別のケースでの判断を巡って
患者の利益と自己決定とを重視・考察する姿勢であるのに対して
障害学は、社会の出来事や在り方が障害者全般に及ぼす影響を中心的な問題とする」
という括り方を始めとして、

いくつか、著者は生命倫理学の方にずいぶん甘いのではないかという印象を受ける個所も。

甘い、というよりも、ナイーブという方が正しいのか……。

Ashley事件の成長抑制批判論文にも強く感じたことなのだけど、
私はOuelletteの「学者的世間知らずの純情」に時々イラッとさせられることがある。

まるで
アカデミズムが政治的配慮や意図とは無縁なものであるかのように、
学問や学者が権力や利権からの要請でチョーチンを振ったことなど皆無であるかのように……。

2010年1月の成長抑制シンポでWilfondが使い、
その後のHCRの成長抑制WGの論文でも使われている
「共通のグラウンド」という言葉がどれだけ胡散臭いものかを考えると
もともと一部倫理学者は“承知”でやっていることではないか……と、
私はとてもOuelletteのように素直になれないし、

「無益な治療」論や臓器不足解消を巡る、
一部の非常にラディカルな生命倫理学者の発言に触れ、
その学問的な誠実を全く感じさせない強引な論理に呆れると、
医療コスト削減の社会的要請と「科学とテクノの簡単解決文化」の利権という
社会権力の御用学問としての生命倫理学の徒でしかない人たちの存在を疑わないではいられない。

私には
生命倫理学という学問の、学問的な誠実というものを
Ouelletteが素直に本気で信じているように見えることが不思議でもあるのだけれど、

Ouelletteが Miller事件の節で Peter Singer に言及した際のトーンから推測すると、
そうしたラディカルな生命倫理学者の主張はほとんどの学者には相手にされていない、
今なお異端に過ぎないと考えているのかもしれないし、

Ouelletteは「和解への道 a path toward reconciliation」などという表現も、
もしかしたら、本気で信じて使っているのかもしれないし、

あるいは、生命倫理学という学問に対して、
障害への捉え方への再考を正面から求めるとしたら、
こういう姿勢が最も有効だということなのかも。

この辺りは、最後の章での
Ouellette版「障害者に配慮ある生命倫理」による具体的な考察を読んでみたら
著者の意図がもう少しはっきりと見えてくるのだろうと思う。

いずれにせよ、
当ブログ周知のアシュリー事件とあらまし知っているGonzales事件が
どのように考察されているのか非常に興味深いので、
まずはこれらの事件について楽しみに読んでみようと思います。



【Ouelletteの論文関連エントリー
09年のAshley事件批判論文については以下から4本。
「倫理委の検討は欠陥」とQuellette論文 1(2010/1/15)

10年の、子の身体改造をめぐる親の決定権批判論文については以下から4本。
Quellette論文(09)「子どもの身体に及ぶ親の権限を造り替える」 1: 概要(2011/6/22)