人間の欲望のオモチャにされたチンパンジーの物語・映画「プロジェクト・ニム」

7月8日に米国で封切りになったドキュメンタリー映画  “Project Nim”。

映画の予告映像は、こちらの日本語サイトで見ることができます。

このサイトの説明によると、
手話を駆使して人間と会話することで世界的に有名になった
チンパンジーのニムの生涯をまとめたドキュメンタリー

映画の公開に当たって、実験の詳細を振り返る記事がSalonにありました。



プロジェクト・ニムは、70年代に
動物が人間の言語を習得できる可能性を模索するため、
知能の高いチンパンジーの子どもニムを人間の子どもと同じように養育し、
手話を教え込もうとしたコロンビア大学の心理学者 Herbert Terraceの実験。

手話を教えたのは、
チンパンジーが人間の言語を話すための筋肉を欠いているため。

当時、言語学者ノーム・チョムスキー
言語は人間にしか習得できないものだという説を唱えており、
実験が彼の説にチャレンジするものであったことから、
ニムは“ニム・チンプスキー”とも渾名された。

しかしTerraceの結論は
ニムは125語程度の手話の習得に留まり、
目先の目標を達成するための原始的な合図を超えたレベルに達することがなかった、
というもので、当時、論議を呼んだ。

しかし、今こうして実験の詳細やニムの生涯を振り返ると、そこに見えてくるのは、
70年代の米国のアカデミズムを背景に、チンパンジーに投影された、
ありとあらゆる種類の人間の欲望とイデオロギーであり、
チンパンジーと言語の問題よりも、むしろ人間の傲慢。

実験はまず、ニムの母親を麻酔銃で撃ち、捕まえてきた生後2週間の赤ん坊を
Terraceの元恋人でチャンパンジーに関する知識など皆無である女性Stephanie LaFargeに
引き渡すことから始まった。

LaFargeの家はマンハッタンの混沌の中で何世帯もが共同生活をしており、
もともと多くの子どもが野放図に暮らしている家庭だったので、
そこに動物が一匹加わったからといって大勢に影響がなかったのだという。

フロイド心理学を学んだ元大学院生であったLaFargeは
言語習得のみを念頭に置いたTerraceの単純素朴な実験意図にも関わらず、
ニムに母乳を飲ませ、自分の身体を触らせ、自慰行為を観察するなど、
勝手に独自の実験を行った。酒を飲ませ、マリファナも吸わせた。

やりたい放題に甘やかされたニムが
嫉妬深くてわがままな、愛情も豊かだけれど性欲にも暴力にも抑えが利かなくなると
Terraceは、ニムを大学の施設内に移し、

今度はその時点での恋人であった、学部学生の Laura-Ann Petittoに託す。
少なくとも2人の関係が終わるまで、ニムはPetittoに託され、

その後はまた別の学部学生 Joyce Butlerに預けられた。

5年間の実験の間、ニムは3人の代理母の間を転々とした。
こんなことが人間の子どもで起こったら、大きな問題のある生育環境のはず。
ニムは、実験の間、そうした無秩序で一貫性のない状況に置かれたのである。

テラスはニムを単に実験の道具としかみなさず、
実験が失敗に終わると、ニムが生まれたオクラホマ州の霊長類研究所に送り返してしまう。
コーヒーの味を覚え、皿を洗い、人間のトイレを使っているチンパンジー
沢山のサルが詰め込まれたキタナイ研究施設に送り返したのだ。

彼がその施設にニムを訪ねたのは、
1797年に本を出版した際にプロモのためにカメラマンを連れていった1度きり。

後にその研究所が、ニムを含め所有していたサルの多くを
霊長類でワクチン実験をしていたNY大学の実験室に売り払った際にも、
テラスは全く興味を示さなかった。

彼の現在のHPにも
70年代のニムに関する仕事は一切記載されていないとのこと。

しかしニムはオクラホマで、その後、彼の親友となる大学院生と出会っていた。
その大学院生Bob Ingersollが弁護士や他の研究者らと一緒にメディアに訴え、
ついに動物の権利擁護活動家Cleveland Amoryの関心を引いた。そして、
ニムは仲間のチンパンジーたちと共に過ごせる環境で生涯を終えることができた。

Ingersollの言葉がとても印象的で、

彼は言語を習得できるかどうかという議論には全く興味がないが、
ニムが独自に考案したものも含めた手話と、非言語コミュニケーションを通じて
彼自身はニムとちゃんとコミュニケーションが取れた。

それは、しかし、動物と一緒に暮らしたことのある人ならみんな知っていることで、
動物だって知恵もあれば知能も高いけれど、だからといって
動物を人間のように仕立てようとするのは間違いだ、というのは常識。

テラスの実験は、その常識から外れ、その常識をまっこうから否定するものだった、と。

映画「プロジェクト・ニム」は、
ニムは果たして言語を習得したのか、あるいは習得の可能性はあったのか、との問いには
答えを出していない。

記事の最後のセンテンスが示唆的で、

It does suggest that only by treating other species with dignity and respect can we respect our own unique status, and that’s a lesson we keep forgetting.

映画が描いて見せるのは、

尊厳と敬意を持って他の種の動物を扱うことによってのみ
我々人間だけが人間であるということに敬意を払うことができる。
しかし我々人間は、その教訓をいつも忘れてしまう……というメッセージ。


この問題、
以下の2つのエントリー・シリーズで考えてきたことに通じていくような気がします。