ミュウが号泣したワケ

この前、娘を園に迎えに行く途中、
事故で道路が渋滞して、いつもより20分も遅くなってしまった。

部屋に入ったら、
テレビの前で車いすに座っている娘は
鼻も目も真っ赤に泣き腫らしていた。

ミュウは金曜日には、どうかすると師長さんを大声で呼びつけて
「あたしは今日、家に帰ることになっている?」と確認してもらっていた時期もあるので
(彼女には言葉はないけど、今の師長さんとは、かなり細かく会話が成立します)

てっきり迎えが遅くなったから泣かせてしまったのかと思って
夫婦で娘に向かってしきりに謝っていたら、

娘と一緒にテレビを見ていた身障の女性が「おかーさん、ちがうよ」。

なんでも、1年だか1年半だか短い間働いて、この春辞めた元職員の男性が
今日、園に来て、つい、さっき帰ったのだとのこと。

働いていた頃にミュウのことをずいぶん気にとめてかわいがってくれた人で
ミュウは再開を大層喜んだ。

その人もミュウとの再会を喜んでくれたそうな。
そして、その人が帰る時に、ミュウは号泣したのだという。

(最近のマスコミは、ただ涙を流すことを大げさに「号泣」と称しますが、
ウチの娘が泣く時には、本来の「号」の意味通り、わぁわぁ大声を放って盛大に泣くのです)

「ふ~ん。そうだったのかぁ。で、その人って、だれ?」と訊くと、
その女性が「たぶん、お母さんの知らない人」
「あ……そう……。ふ~ん。そっかぁ。
ミュウ、泣いたかぁ。別れが悲しかったんだぁ」

こういう時、親としては、ちょっと複雑な気分にはなる。

迎えが遅くなったから泣かせたんだと早とちりしてしまったのは、
とっくに大人になったミュウを前に、親の自意識過剰だったのね……。

これは、ちょっとバツが悪いし、ちょっとヘコむ。

でも、ヘコみつつ、どこか、猛烈に嬉しい。

こんなにも重い障害があり、言葉という表現手段を持たない娘が
親の知らないところにちゃんと自分の暮らしを築いていて、そこで
親の知らない人と、それほどの繋がりを作っているということ。

それは、やっぱり、すごいじゃないか。
それって、なんだか、わくわくするじゃないか。

今までも、どこかで親の知らないミュウの知り合いに声をかけられると、
「親の知らないミュウの知り合い」に心躍ったことは何度かあった。

でも、これは、また、それ以上に、
ああ、この子は自分の力でそれだけの広い世界を作り生きているんだなぁ、
言葉を持たないこの子を受け止めてくれる人がちゃんといるんだなぁ、
その人と再会して別れるのが、こんなにも悲しいほど、
ミュウはその人が大好きだったんだなぁ……。

ミュウ、あんた、すごい人間だねぇ……。

まだらに腫れた顔で、泣き疲れてブスッとしている娘を見やって、つくづく思う。

そして、会う機会も話す機会もなかった、その元職員さんに、
心から、ありがとう、と、つぶやく。

だって、それは、
この子をいつか社会に託して逝く勇気があるか
それだけ総体としての人間を信じられるか、と
ずっと自分に問い続けている私にとって、

私の方こそ大声あげて泣きたいほど、
嬉しく勇気の湧いてくる話だったからさ。