日本の成年後見人制度は国連障害者人権条約に抵触

ずっと、ちゃんと知りたいと思いつつ、
そのままになっていたことが

発達障害白書 2011年版」(日本発達障害福祉連盟編)の
法政大学の佐藤彰一氏の「『障害者権利条約』と日本の成年後見制度」という文章で
分かりやすく解説されていた。

日本の成年後見制度は、
国連障害者権利条約の中の法の下の平等を定めた第12条に抵触する。

第12条の主張とは、
障害のある人もない人も法律社会の中での能力や資格(法的能力)を
等しく与えられるべきだというもの。

それに対して、日本の成年後見制度は
本人の法的行為を取り消す取消権と
本人からの委任がなくても本人に代わって法律行為を行う代理権という
2つの仕組みで成り立っていて、

本人の法的能力を制限することによって、
契約社会から本人を排除して保護する仕組みになっている。

それは「保護に名を借りた権利侵害ではないのか」と
佐藤氏は疑問を呈する。

一方、ドイツの世話人法でも英国のMCAでも
本人の法的能力に制約を加えるのは極めて例外的な場合に限られているという。

ハンガリーなど東欧圏では、
国連障害者権利条約に合わせて法改正が行われた、とも。

08年の国際育成会のオピニオンペーパーは
条約批准国に対して能力制限撤廃の法改正を求め、
その代案として「支援つき意思決定 supported decision-making」モデルを提示している。

オピニオンペーパーは日本育成会によって翻訳されています。
http://www.ikuseikai-japan.jp/pdf/position-paper2.pdf


まだ、ざっと読んでみただけなのだけど、
これに沿ってAshley事件を考えてみるとどういうことになるのだろう。

佐藤氏の解説を読みながらAshley事件を頭に浮かべた限りでは

父親やDiekema、Fostらの主張するところは、
重症児は、その障害の重さゆえに、介護者たる親の決定で、ということなのだから、

もちろん、supported decision-makingのスキームでも障害が重すぎて対象外だと主張するのだろうし、
それは、すなわち、保護するために排除する、排除して保護する、という立場だし、
だからこそ人権擁護の立場から「保護や親の愛に名をかりた権利侵害だ」という批判が出ている。

それに対して、
イリノイのK.E.J.判決や、米国小児科学会の方針産婦人科学会の方針
A事件の論争でいえばWPASの見解Quellette論文その他が検証しているように、
障害児・者の子宮摘出や同様に侵襲撃度の高い医療については親や後見人の決定権の例外として、
意思決定に至る然るべきプロセスの、緩やかながら一定のスタンダードのようなもの英語圏にはあり、

それは、ポジションペーパーに見られる理念に、
少なくともDiekemaらのスタンスよりは、はるかに近い。

一方、人権条約もポジションペーパーも、
本人の最善の利益を重視しているスタンスにおいて、
どこかにA療法の論理に道を開く隙間があるのでは……という不気味さも
私には何となく感じられていて、

こういう理念や仕組みと
パーソン論で障害のある新生児や重症障害児・者には道徳的地位を否定するSingerの議論や
Fostらの「無益な治療」の切り捨て論が許容されていきつつある英語圏生命倫理の実情、
一部の終末期医療において本人の明示的な意思表示なしに安楽死が行われ始めていること
米国小児科学会が水分と栄養の停止に関する指針で児童虐待防止法を否定していること、などとは
一体どういう関係にあるのか、ということも何やら気がかりでもあって、

それやこれやを念頭に、もう一度ペーパーを読んでみようと思う。


財産管理とか生活運営などと、医療における意思決定とは同じ路線で考えられているのか、
それとも別個のものとして考えられているのか、別としたら、その距離はどうなのか
……といったことが、私の頭の中では、イマイチ整理されていないことも、
あれやこれやを考えてみるのに、しっくりしない原因なんだろうと思うのだけど、
知らないことが多すぎて、どうにもならない。

(日本では成年後見人に医療行為への同意権はなく、
法的裏付けもないまま家族同意で行われているという話もある)

医療介入については、以下などでもずいぶん言及されていると前に人から教えてもらったのだけど、
まだ、ちゃんと読み切れていない。


上記、取り扱いまたは刑罰に関する08年人権理事会特別報道官報告
国連第63回総会に報告されたもの。
長野英子さんのHPに翻訳紹介された、障害者関連の第三章。


多くの人の長い時間をかけた運動の積み重ねの先に、このような理念があり、そのおかげで
米国小児科学会や産婦人科学会の、侵襲度の高い医療に関する慎重な態度といった一定のスタンダードが
これまで培われてきたのだろうと思う。

問題は、やっぱり、たぶん、
科学とテクノロジーの進歩と、それに伴う社会構造や人々の意識の変化の中から、
そういう人権意識が多くの人の努力によって培われてきた歴史性のようなものを
一気に突き崩そうとする動きが出てきていること――。




後者のエントリーで、認知症医療に詳しい三宅貴夫氏が
法的裏付けのない家族同意よりは成年後見人の権限を広げるよう提言していて、
私も、そうだなぁ……と、去年それを読んだ時には思ったのだけど、

やっぱり誰の権限で代理決定するというよりも、
プロセスがどれだけ本人主体になっているかという問題のような気がする。

「本人の最善の利益」という、どうにでもなるアリバイみたいなものではなくて、

その最善の利益を見つけるに至るまでに、
どういう立場の人たちが、どういう姿勢とプロセスで
その人の人となりと人生の一回性を尊重し、意思決定に至ったか、ということ――。

でも、それを制度化することが、難しいのだろうなぁ……。