MN州の公式謝罪から「尊厳は無益な概念」を、また考えてみる

MN州の障害者に対する公式謝罪を実現させたMarty議員の声明を読んで、
ここでも、ごく自然に「尊厳」が触れられている……ということを思い、

そのことと併せて、
ずっと前から考えているDiekema医師の
「尊厳」は定義なく使っても無益な概念……との主張のことを考えていたら

なぜ「尊厳」が無益な概念ではないか、反論のようなものが1つ、頭に浮かんだ。

まだ、まとまりを欠いているし、
私が考えつく程度のことは、誰かがとっくにどこかで書いているとは思うのだけど、
尊厳については、私なりに、ずっと継続して考えていきたいと思っているので、
1つの段階として、頭に浮かんだことを、以下に。


「尊厳」が定義なく使われても決して無益な概念ではないのは、「尊厳」は
例えば「神」とか「信仰」とか「愛」とか「理想」と同じ種類の概念だから――。

簡単に言うと、これが、今回、頭に浮かんだことの主旨です。

これらの概念は、
それが「ある」とか「ない」と万人で統一して決めたり、
それを万人が共有できるような形で定義することが難しいもので、

それは「ある」と信じることによって「ある」のであり、
「ある」と信じることによって、それがあることに意味が生じる、という種類のもの。

「神を信じるか?」と問われたら、
私は、特定の宗教の「神」は信じていないような気がするけど、
でも、そういう「神」を信じている人の「信仰」も否定しない。

一方で、私は、
この世界には、それを成り立たせている一定の法則性のようなものがあると感じていて、
人間をはるかに超えた「自然の意図」とか「大いなる計らい」と受け止めたりしつつ
そういうものが「ある」と漠然と信じているし、

それも、ある意味では
「神」を信じている、ということなのではないかという気がする。

(科学というのは、もしかしたら
「自然の法則性」の美しさや崇高さに魅せられた人が
それを解明する行為を通じて、それに近づけると信じる信仰……?)

定義しろと言われても、
それは、その人それぞれにとっての「神」だったり、
「神」とか「信仰」という名前ですらないものだったりもする。

でも、それで何も困らない。

それは、人がそれを感じるのが
その人の個人的主観的な体験においてだからで、
その点は「愛」とか「理想」も同じなんじゃないだろうか。

それぞれの人にとっての愛であり理想であり、
もっと言えば、それぞれの人と、ある特定の人との関係性の中でだけ
あり得たり、問題になったりする愛とか理想というものだってある。

でも、個人的、主観的に体験されるものだからといって、
「ない」わけでも「無意味」なわけでもない。

万人が共有できる客観的な定義などできないけど、

それが「ある」と信じることによって
それは、その人にとって「ある」のだし、

それが、その人にとって「ある」ことによって、
それは、その人にとって大切なものとして意味を持ってくるし、

その大切さを、
自分を超えた誰かとのつながりや関係性の中で体験することによって
その人は自分を超えた誰かとか、もっと大きな何かと繋がっていくことができるし、
その繋がりを信じたり、その繋がりに意味を見いだすことができる。

そんなふうにして、
それらが「ある」と信じることが
私たちの中の何か「善いもの」を生む力になっている。

それが大切だと感じることによって、私たちそれぞれの中で、
人として大切な何か「善いもの」が損なわれずに守られていく。


同じように、
一人一人が「ある」と信じるだけではなくて、
多くの人が「ある」と信じることによって
それが人々つまり社会の中で大切なものとして意味を持ち、

それが大切なものとして意味を持っていることによって
人間としての我々の中の、なにか善いもの、貴重なものが
損なわれずに守られていく。

それは、例えば、
なんだか身に沿わなくて使うのが気恥ずかしい言葉だけど「ヒューマニティ」とか。

もうちょっと自分の身の丈に沿った言葉を探してみると、
人としての良識とか品性とか、

ただ単に、なるべく「ひとでなし」にならずにいられる、ということとか。

例えば、インターネットで書き込みをする時に
実名で書きこむ際の「自分」から、匿名になった途端に、かなぐり捨ててしまう人がいる部分のこと。

実名で書けないことは、匿名でも書かない節度として、
自分からそぎ落とすことをせずに守る人もいる、そういう部分のこと。

だから、私たちは
「愛なんていくらでもお金で買える」と放言する人に不快になるし、
「理想なんて口にしたって仕方がない」と言う人がいたら心が痛んで、
そういう人が一人でも少ない社会であれかしと考えたりするんじゃないだろうか。

(追記:ここの「考えたりする」は「思わず祈ったりもする」の方が的確なのかも……と考えて、
そうか、たぶん「祈り」も、こういう概念の1つだな、と思った)

そういうものとして「神」とか「愛」とか「理想」とかがあって、
「尊厳」も、また、そういう種類の概念の1つなんじゃないだろうか。

もちろん「神」や「愛」や「理想」が、
人によって、場面や文脈によっては、
丸反対の意味で使われることだって可能だし、

時には非常に偏ったものになったり
武器として利用されたり、操作の道具として使われてしまうこともあるし、
まっすぐに信じるがゆえに危険な概念になり
多くの人が被害に遭うことがあるのと同じように、

「尊厳」も、
人によって、場面や文脈によって内容も使われ方も違っていたり、
何かの目的で利用されることや、時には、とても危険な使われ方をすることだってある。

でも、それだからといって、「愛」や「理想」と同じように、
「そんなものはない」とか「そんなものには意味はない」「無益だ」と
切り捨てることは、してはいけないんじゃないだろうか。

「尊厳」なんて無益な概念だ、と皆で躊躇いなく切り捨てる社会は、
「愛」や「理想」を「そんなものは無意味」と皆でかなぐり捨てる社会と、きっと同じ場所のはずだ。

そんなところには誰も住んでいたくないはずだ……と、
私はまだ信じているし、この先も信じたいのだけど、

最近、世の中に増殖しているよう見える
「機能」とか「能力」とか目に見えるもの数値化できるもののことしか言わない人たちには
な~にを無意味なタワゴトを……愛も理想も脳と遺伝子次第なのに……と、一蹴されるのかな。