統合失調症のスペイン人男性にDIY自殺キットを渡したとして、Dignitasに捜査

39歳のスペイン人男性が統合失調症を患っているにもかかわらず、
その精神状態について、わずか数行の説明でごまかした文書で、
チューリッヒの婦人科医に処方させ、
DIY自殺キットを手渡したとして、
スイスの医療当局がDignitasに調査を開始。

この記事に書かれているのは、その他2点で、

2005年には
ドイツの女性が自国で職場に提出すると偽ってGPに書かせた末期であるとの証明書で
Dignitasで自殺幇助を受けて問題となったことがある、とのこと。

(ただ、スイスの法律は、特にターミナルな人という条件を付けていないはず。
というか、もともと自殺幇助が違法でないという解釈の問題のようでもあり。
といってもスイスの当該法について詳細を知っているわけではなく、ニュースからの断片情報のみ)

もう1点は、当ブログにも何度か登場している看護師
元Dignitas職員のSoraya Wernliさんのこと。

創設者のMinelliはこれまでいくつもの訴訟を起こされながら
違法な殺人で起訴されたことはないのだけれど、

Dignitasは倫理的な安楽死をやっているわけではなく金もうけの手段にしているだけだとして、
Wernliさんは次々に訴訟を起こしては告発を続けていて、
絶対に有罪に持ち込むと燃えている、という話。

辞職する前の8ヶ月間はWenrliさんは警察の潜入スパイとしてDignitasで働いていた、
ということも書かれていて、

それで、これまで警察がMinelli氏を逮捕できていないなら、
Wenrliさんの告発の信ぴょう性は……? とも、考えてしまった。



DIY自殺キット……。

もう自殺幇助関連のニュースを追いかけて、かなり経ちますが、
この表現は初めて見ました。

医師が処方した致死薬のことを、DIY自殺キットと最初に呼んだのは
Dignitasなんだろうか。それともメディアの誰かなんだろうか。
その感覚そのものが、なんか、おぞましくない?


それにしても、自殺した人の骨壷を湖に投棄したり、
精神障害を隠して自殺用の薬を手に入れて渡したり、
Minelli氏はもう感覚がマヒしているとしか思えない。


そういうのは、きっと、
個々の行為がスイスの法律にのっとって違法か合法かという問題ではなく、
たとえ個々の人の自殺幇助に法律上の問題がなくとも、
たとえ彼らの遺骨を湖に放り捨てる行為がさほどの重罪ではなかったとしても、

それの行為が一人の人間の中で繋がっているというところには
法律を超えた倫理の問題としてゼッタイに見過ごしてはいけないものがある、と思う。

定義もできないし、合理的な説明がつかないから、そんなものは無意味だと
英語圏の一部の生命倫理学者は「尊厳」という概念を切って捨てるのだけれど、
では、Dignitasで死んだ人の遺骨が無造作に湖に投げ捨てられていた事実に、
なぜ私たちはこんなにも心を逆なでされるのか。

もう死んでしまった人の遺骨がどこに置かれようと、そんなの、
その人にとっては利益も不利益もないと言ってしまえば、それまでだ。

チューリッヒ湖の底に眠り続けるのが「本人の最善の利益」だと
倫理学者がどこかから正当化の理屈を探してきてコネくり回すことだって可能だろう。
あの人たちはそういうことがショーバイなのだから。

そういえば、Diekema医師やFost医師は、
「Ashleyには自分の尊厳を感じることすらできない」と言った。
だから、彼女の身体を侵襲することは尊厳を侵害することにはならない、と。

その論理を転用すれば、
遺骨を湖に捨てられた死者には自分の尊厳を感じることなど、もうできないのだから
ほら、やっぱり、生命倫理学者のご高説によれば、「別に、捨てたって構わない」ことになってしまう。

でも、大半の人は、遺骨を湖に投げ捨てるという行為にショックを受け、心を痛める。
それが自分とは全く関わりのない赤の他人の遺骨であっても、「許せない」と感じる。

それは、その行為が尊厳を侵していることを
理屈抜きに感じるからではないのだろうか。

誰か特定の人の尊厳が侵されていると同時に、その行為は、
あなたも私も含めた、人というものの尊厳を踏みにじっていると
感じるからではないのだろうか。

一人の人の尊厳を侵すことは、
すべての人の尊厳を侵すことに通じていくからではないのだろうか。

尊厳なんて定義できないんだから無益な概念だと切り捨てて、
合理の世界だけのヘリクツをこねくり回しては、
人の生や死や身体を操作することを繰り返していると、
人の感覚は麻痺していく。きっと。Minelliのように。

自分が手を貸して人を死なせることにも、
その遺骨を手近な湖に投げ捨てることにも、
精神障害のある人が死にたいと言ってきて、それは症状かもしれないのだから、
もしかしたら症状さえ収まれば気持ちが変わるかもしれないと知っていたとしても
この人一人が死ぬこと1つが、どっちに転んだって、そんなの大した問題じゃないし……と、マヒしていく。

そして、そういう人は、だんだんに人として腐る。

尊厳って、やっぱり頭で理屈をこねて考えるものじゃなくて、
心で感じるものなんじゃないんだろうか。

「すべり坂」も、
死の自己決定権や、生命の操作や、重症児の身体の侵襲や、人の身体の資源化など
個々の問題において、セーフガードが効かなくて、その技術やルールが、
本来ターゲットになるべきでない人に濫用されてしまうというだけじゃなくて、

本当は、一番おそろしい「すべり坂」は
人の心が、いのちや、人の生死に対する畏怖や、身体に対しての敬意の感覚を鈍らせて、
人としての心の感度を失っていくことにこそ、あるのでは――?

そして、人間の社会全体が、
人の遺骨を無造作に湖に投げ捨てるような行為に対して、
「その、どこに問題があるのか」と頭で受け止めるようになり、
心を痛める、ということをしなくなっていくこと、

そんなふうに人が人として腐っていくことに――?