「『尊厳死法制化』を考える」報告書を読む

去年12月に行われた、第4回宗教と生命倫理シンポジウム
尊厳死法制化」の問題点を考える、の報告書を読んだ。

日本尊厳死協会理事長の井形昭弘氏の「ダンディな死」発言については
前にも、こちらのエントリーで書いているし、

ピンピンコロリ以外の死に方はすべて苦しみと絶望のうちに死に臨むのだと
脅すかのような発言も、こちらで書いたばかりなのだけれど、

それ以外に、井形氏の発言の中から気になった個所を挙げてみると、

・「ダンディな死」がそうであるように繰り返し使われる「名誉ある撤退」という表現も
 ドイツの話を持ち出した際には「安心立命を得て」死んでいったという表現も
自ら死ぬことにプラスの道徳的価値を付加している。

・「無意味な延命措置」はやめてほしいだけだと繰り返されているが、
どういうものが「無意味な」措置なのかが全く定義も説明もされないまま
「自然な死を望む」ということに対比して語られていくにつれ
多くの場所で井形氏の語りからは「無意味な」が抜け落ちて
単に「延命措置はやめてほしい」になっていく。

安楽死尊厳死の違いを定義する際にも
安楽死は積極的な方法で死期を早めることであり
尊厳死は延命措置を中止すること」と述べて「無意味な」が抜け落ちたまま。
いつのまにか延命措置そのものが全て無意味であるかのように話が進められていく。

・「尊厳死」の定義は上記の通り「延命治療の中止」と説明されているのだけれど
当ブログで追いかけてきた英米の自殺幇助合法化議論を前提に井形氏の以下のような発言を読むと、
頭の中が疑問だらけで、しっちゃかめっちゃかになる。

 多くの国で尊厳死が法制化されて、おぞましい事件が起こらず行われているのに、それを阻む条件が日本にだけあるとは思いません。

例えばOregonやWashington州で制定されている法律の名称は
安楽死法」ではなくて「尊厳死法」 Death with Dignity Act。

井形氏が「多くの国で法制化されている尊厳死」に言及し、
「おぞましい事件が起こらずに行われている」という時に、
そこにはOregonやWashingtonの医師による自殺幇助の合法化や
スイスのDingtiasへの自殺ツーリズムの認識は含まれているのかいないのか。
(7日追記:スイスは「法制化」されているわけではなく「違法でない」というだけみたいですが)

ここは、もうちょっと用語を整理し直すべきなのでは?

「人権の発達した国」では本人の意思を尊重しようと考えるのだ、
安楽死法案まで通すのだと、なぜかオランダとベルギーだけに限って触れているのだけれど、

そのオランダでは70過ぎたら元気でも自殺してもらおうという声が出ていたり、

それ他、自殺幇助が合法化されたり、違法とされていない場所では、
Oregonの「尊厳死」の97%にC&Cが絡んでいたり、
メディケアで抗がん剤治療はダメだけど自殺幇助ならOKという話があったり、
リッチな女性のDignitas死に財産がらみの疑念がとり沙汰されていたり、
Dignitasではターミナルな妻と一緒に健康な夫の自殺が幇助されていたり
ということが起こっているのだけれど、
井形氏はご存じないのだろうか。

それとも単にそれらを「おぞましい」と感じておられないだけなのか。

はたまた、単に「尊厳死」が「医師による自殺幇助」を意味する国や地域があること、
またそうした国や地域で実際にで起こっていることの諸々を
日本では知られたくないだけなのか。

・最後に井形氏が力説しておられるのが

自分の意思を尊重する人権社会では、本人の意思に基づく尊厳死は当然守られるべき権利であることを強く主張して……

その他にも、これは人権の問題だとして「人権社会」という言葉を繰り返し、
人権社会ならば死にたいという本人の意思を尊重して然りと主張しておられるのだけれど、

子育てや介護をしながら働き続けたいという意思も、
障害があっても人の手を借りながら自立した生活を送りたいという意思も、
ただ、ふつうに生きるために、ごく当たり前の生活ができる仕事がほしいという意思も、
ちっとも尊重されなくて、

憲法で保障された生存権すら脅かされているとあちこちから悲鳴が上がっている日本で、どうして
死にたいという意思だけは「人権社会なのだから」尊重してあげよう……という話になるんだろう?