「日本の老人なら他人様の世話になってるくせに、ふんぞり返るんじゃねぇ」と、ふんぞり返って罵る日本人評論家

ちょっと前にトンコさんのコメントで教えてもらって読み、絶句して、触りたくもない気分だったのですが、
ここは一定期間が過ぎるとリンクが切れるようなので今の間に一応取り上げておこう、と。

ふんぞり返る老人たち
高山正之(ジャーナリスト)
Voice、2009年10月14日(水)


後期高齢者医療制度を巡って、それほど長くはない文章で、
論旨はこのエントリーのタイトルどおり。

前半、高山氏は、どこの祭りとも明示せず、

それを見た人は死ぬと言い伝えられていればこそ、
秋祭りで留守にした神様が神社に帰ってくる姿を見るべく、
祭りの終わりには地域の老人たちが神社で神様を待ったのだという……と、

たいそう曖昧な話を語る。

そして「それが日本人の死生観だと思っていたら、最近はだいぶ事情が変わってきたらしい」と
話を日本の高齢者医療へと振るや、

高額医療を制限する後期高齢者制度に「死ねというのか」と高齢者が反発したことに
手厳しい非難を浴びせる。

後期高齢者医療制度は決して高齢者の医療へのアクセスを制限するものではないと
当時、一生懸命にアピールされていたような気がするのですが、これで化けの皮が剥げた?)

そして、

老人の医療負担額は1割。つまり残り9割は他人さまの世話になってきた。それで高額医療も受け放題という現状は、神社の前にたたずむ昔の人には信じられない話だろう。

―――中略―――

先日、厚労省は公費負担医療費が34兆円を超え、その半分が老人医療費だったと発表した。他人に迷惑かけてもふんぞり返って生きたいという老人は、もはや日本人ではない。


あまり考えたくないという抵抗感が続いているので、
ぱぱっと頭に浮かんだことのみ……と思って書いてみたら、結構たくさんになってしまいました。

1. まず、ものすごく率直に、一番ふんぞり返っているのは、あなたでしょう……というのと、
日本人、日本人というけど、あなたの、その剥きつけで粗野なものの言いようこそ、
日本の表現文化として、どうよ?……ナニ国人であれ、礼節として、どうよ?

2. 小さな命をいつくしみ、弱い者をかばい、目上の人を敬うというのも日本の文化の美徳だと思うのだけど。

3. 年齢に関わりなく、また他人に迷惑をかけようとかけまいと、
ふんぞり返っていようといまいと、日本人は日本人であり、

自分が個人的に考える日本人の理想像を基準に、誰が日本人で誰が日本人でないかを
振り分ける資格も権利も、この人にはない。誰にもない。

この人が歳をとって「老人」になる頃に、まだ日本には「高齢者は、
他人に迷惑をかけるようになる前に、年寄りは神社へ行き、神様を見て、死んでください」という法律は
出来ていないと思うけど、

この人自身が日本人としてはそうすべきだという思想信条をお持ちなのであれば、
個人の自己選択として、ご自分は神社の前に立たれればいいんじゃないでしょうか。
神様を見れなかったり、予定通りに死ねなかった時に、どうするのかは知らないけど。

4. 保険制度というのは、医療であれ介護であれ、
必要となった時にみんなで相互に支えあう相互扶助の仕組みなのだから、
自己負担を越えた所定の部分に保険給付を受けるのは保険料を支払っている人の正当な権利であり、
「他人さまの世話になる」と恩着せがましく感情的な表現で罪悪感をおっかぶせるのは、
制度についての認識が根本的に間違っていると思う。

5. 保険の給付を権利ではなく恩恵と捉えて「他人さまの世話になること」と責めるのであれば、
この発言は自己負担割合の問題を超えて、老人に留まらず、
医療費や介護費用を保険から給付されている世の中の病人・けが人の全員を
「他人様の世話になって」と責めることに通じる。

老人だけではなく、慢性病や難病やその他諸々、誰の責任でもなく重い病気にかかってしまった人たち、
介護を必要とする人にも、みんな、うなだれて神社の前に立てという話になる。

6. 「ふんぞり返る」という言葉で非難されているのは、
「他人に迷惑をかけているのに、まだ生きたいと望むこと」なのだから、
医療や介護の保険制度だけではなくて社会保障そのものが否定されて、
障害者福祉だって失業手当だって生活保護だって
「他人に迷惑をかけているんだから、何も主張せず遠慮して小さくなっていろ」という話にもなる。

子ども手当ての世帯ごとの“損得”が話題になった時にも考えたことなのだけど、
結局、こういう論法が向かう先は「自助・自己責任がすべて」の社会で、
互助も富の再分配も平等も人権も否定して、いわゆる勝ち組だけがふんぞり返っていられる社会なのでは。

7.つまるところ、この評論家がここでやっていることというのは、
本来、冷静に分析・議論するべき制度の問題を、個々の老人の意識の問題に転化し
そこに伝承やら国民性やら美意識やらを、たぶらかし装置に持ち出して、

世論を老人バッシングへとアジっているだけ。

8. でも「戦後の日本の復興を支えてきた世代に向かって、なんて酷いことを言うんだ! 
今の豊かな日本があるのは、一体誰のおかげだと思っているんだ?」という反論を持ち出すことには、
ちょっと気をつけたいな、と思う。

今のお年寄り世代のご苦労に対して感謝と敬意を持つべきだというのは、私もそう思う。
思うのだけれど、それをもって高山氏への反論の論拠にしてしまうと、それは意図せずとも
「医療コストを社会に許容してもらうには、社会に対して一定の貢献がなければならない」という基準を
設定することになってしまう。

「社会に貢献できない人に社会コストをかけることは不当だから、そういう人には死んでもらおう」と
現在、英米を中心に進んでいる「無益な治療論」や功利主義の医療倫理の主張に反論できないどころか、
それを支持する基盤を作ってしまう。


当時主流だった「その医師は豪社会に貢献してきた人だし、これからも貢献できる人だから、
認めてあげましょう」とか「ダウン症はそれほどコストがかからないから」という根拠では、
それがいかに親子に対する善意から出たものであっても、逆に
「社会に貢献できない人や、もっと手のかかる障害の場合は、
子どもの障害を理由に移住を認めなくてもよい」という
原理原則を敷くことにつながってしまう。

それは、いま、すでに「治療の無益」から「患者の生の無益」へとじわじわと変質している
「無益な治療」論を肯定する原理に通じることに注意しておきたい。

個別の議論で目先の反論をすると、逆にそうした落とし穴にはまってしまいそうなので、
そこのところの危うさには十分気をつけないといけないのでは……ということを、一番強く考えている。

もう1つ、
後期高齢者医療制度の問題だけでなく、総じて、
弱い立場に置かれている人が声を上げることに対して、
感情的に反発し、押さえ込もうとする高圧的・反動的な空気というのが
最近あちこちで確かに目立ってきたように思えるなぁ・・・・・・ということと。