ダウン症スクリーニングでShakespeare「技術開発と同じ資金を情報提供に」

10月28日に取り上げた以下のニュース
ダウン症胎児急増するも出生数は減少(英)に、
Ashley事件関連を皮切りに当ブログで何度か発言を取り上げてきた英国の障害学の学者
Tom Shakespeare氏が当日の the Guardian紙で反応していました。

10月28日に報告された調査結果は、
過去20年で出生前にダウン症だと診断されるケースが71%も増加している一方で、
その診断から妊娠中絶を選択する親の割合は9割のまま変わっていない、というもの。

Shakespeare氏は、まず、自分は基本的には、十分なICの結果としての女性の選択権を尊重するし、
ダウン症の子どもが生まれたら、どうしても育てられない事情がある人もいることも理解している、と
前置きした上で、

この情報のように統計が出してきた数字だけを見ていたのは
現実に生身の人間に背負わされている精神的・肉体的コストは見えないと指摘し、
おおむね、以下のように述べている。

過去20年間でダウン症の診断が増えたのは、
以前はリスクが高いとされる35歳以上の妊婦だけが受けていた血液検査を全員が受けるようになったため。

しかし、血液検査で陽性と出て羊水穿刺を受ける人の95%は陰性だと診断されるのだから、
血液検査が普及したことによって、多くの妊婦は無用の不安と検査リスクを負わせているのである。

また、去年の調査で
660人のダウン症児の出生を防ぐためには400もの健康な胎児の妊娠で流産が起きるとの試算もある。

望まない妊娠をした女性が早期の妊娠中絶をするのとは話も違うしリスクも違う。
望んだ妊娠で、胎児の胎動が感じられるほどの段階に至ってからの決断である。
このような決断を迫られる夫婦の苦るしみについては、もっと研究が必要。

もともと自然の摂理によってダウン症候群の胎児は流産しやすいようにできているのだから、
自然に起きた流産の苦しみと、中絶を選ばなければならない苦しみの、
一体どちらが大きいのか、比較してみる研究も必要だろう。

我々のチームは数年前にダウン症児・者や親について
写真を含めた情報を広く提供するサイトを立ち上げた。

どこからも話題にされないし、
NHSも、検査の制度を上げることばかり考えている人たちも、一向に興味を示さないが、
検査を受けた夫婦へのインタビューなど、それなりにいい仕事をしているつもりである。

で、Shakespeare氏の結論は、

テクノロジー開発に費やすのと同額の資金を情報提供とカウンセリングに振り向けるべきである。
統計やコスト対効果の計算よりも、生身の人間の方が大事なのだから。

あと10年もすれば、早期に発見できる非侵襲的な検査が開発されるだろうし、
そうすれば、流産のリスクも妊娠後期での中絶を決断する苦しみも軽減されるが、

それまでは、科学で可能になったことが増え、社会の子育て観が変わったことで
却って難しい選択を迫られ、長期にわたって苦しみを抱えなければならない人が増えているだけだ。

The human cost of screening for Down’s
The Guardian, October 28, 2009


障害当事者であるShakespeare氏は、
これまで当ブログが追いかけてきたところでは、

“Ashlely療法”には反対だった。
しかし自殺幇助合法化、死の自己決定権は支持している。
(詳細は文末のリンクに)

で、この文章を読む限り、
ダウン症児のスクリーニングに文句をつけている理由は
そこに生じる親の精神的・肉体的な負担のみのようだから、
どうやらダウン症児が生まれないように選別することそのものは
安全性と検査の精度が保証される限りにおいて、
女性の選択権を前提に支持しているように思われます。

ダウン症以外にも、科学とテクノロジーで排除可能とされる障害や病気は、
どんどん増える一方ですが、それらについても、
肉体的に精神的に親の負担が小さければ排除そのものは否定しないのでしょうか。

それとも、診断技術の開発はとめようがないから
それなら、せめて、ということなのでしょうか。

もちろん情報提供とカウンセリングを充実する必要については
私も同意するけれども、

その情報提供は、
ダウン症の子どもは生まれてきても不幸になる、
ダウン症の子どもが生まれた家族は大変な苦労をして不幸になるに決まっている、という
ステレオタイプではなく、現実のダウン症の人と家族の姿をきちんと見て
正しい知識に基づいて選択してほしいという意図なのだとしたら、

ダウン症を、
検査さえ安全で、中絶を選択する心理的負担さえ軽減できれば
世の中から排除するに越したことがないものとみなすことと
そういうスタンスでの情報提供とは、彼においては、どう相容れているのだろう。


自殺幇助合法化支持論や、それに続くCambell氏や Drake氏との論争でも感じたのだけれど、
Shakespeare氏は、個人の選択権という範囲でしかものを見ていなくて、
社会全体の障害に対する姿勢や価値観へのインパクトという部分を
見落としているような気がしてならない。
(詳細は文末のリンクに)

そして、そのことは、彼の障害学を
自己選択・自己決定の可能な障害者だけの小さな障害学に終わらせてしまわないのかな。

出生前遺伝子診断や遺伝子操作で出来ることが増えるにつれて、
病気や障害そのものが「あってはならない」ものに変わっていくことの意味やインパクト、
親が子を選べるようになることが親と子の関係性に及ぼすインパクトなど
もっと大きな枠組みで捉えなければならない問題があるような気がするし、

そもそも、科学とテクノロジーによって出来ることが増えたために
生身の人間が余計な苦しみを背負うことになっているのは、
科学とテクノロジーの発展がまだ十分な域に達していないからなんだろうか。

科学とテクノで可能なことが増えたために
生身の人間が個々に生きていく中で、より多くの苦しみを抱えることになる、という
皮肉な構図は、もっと安全で精度の高い検査が開発されても変わらないし、

(力の強い者は、より他者の苦しみに対して無関心・無感覚になり、
力の弱い者だけに、その苦しみがより多く背負わされていくという構図になるために
表面的には誰も苦しんでいないかのように言い繕われるのかもしれないけど)

科学とテクノで可能なことが増えれば増えるほど、
人間はより深く欲望に執着し、我執に捉えられて、より苦しむだけなんじゃないんだろうか。

欲望さえ満たせれば幸福になるのではなく、
本当は、むしろ欲望にしがみついていく手を離し(「私の中のあなた」のlet go ですね)、
欲望への執着から開放されることによって、
人は真の意味で幸せになるのではないんだろうか。