「親から子への臓器提供は賞賛する必要もない当たり前の義務」とA事件を擁護したRoss

このところ映画「私の中のあなた」についてあれこれ考えたことから、
生体間の臓器提供はドナーに自己評価の向上をもたらすというのは
「ドナー神話」であり「母性神話」の再生産ではないのかという気がして、

そんなことを素人のお気楽さ、大胆さで某MLに投稿してみたら、
様々な分野の専門家から、いろいろ教えていただきました。

その中に、
生体間臓器提供の自発性に関連した、米国における、とても気になる論争があったので
その論争を取り上げて論じた堀田義太郎氏の論文を読んでみました。

生体間臓器提供の倫理問題 - 自発性への問い
大阪大学大学院医学系研究科 堀田義太郎
「医学哲学 医学倫理」 2006年 第24号

なお堀田氏が取り上げている論争は以下に。

Glannon, W. & Ross, L. F. 2002, “Do Genetic Relationships Create Moral Obligations in Organ Transplantation?” Cambridge Quarterly of Healthcare Ethics, 11.
――, 2005, “Response to “Intrafamilial Organ Donation Is Often an Altruistic Act” by Aaron Spital (CQ Vol 12, No 1) and “Donor Benefit Is the Key to Justified Living Organ Donation” by Aaron Spital (CQ Vol 13, No 1),” Cambridge Quarterly of Healthcare Ethics, 14.
Spital, A. 2001 “Ethical Issues in Living Related Donors,” Shelton & Balint (eds.) The Ethics of Organ Transplantation, Elsevier Science Ltd.
――, A. 2003, “Response to “Do Genetic Relationships Create Moral Obligations in Organ Transplantation ?” by Walter Glannon and Lainie Friedman Ross (CQ Vol 11, No 2))” Cambridge Quarterly of Healthcare Ethics, 12.
――, 2004. “Donor Benefit Is the Key to Justified Living Organ Donation,” Cambridge Quarterly of Healthcare Ethics, 13.
――, 2005, “Reply to Glannon and Ross,” Cambridge Quarterly of Healthcare Ethics, 14.

実際の前後関係はこの論争のほうが先ですが、
ここに登場しているRoss とは、当ブログでも何度も取り上げてきた
Ashley事件ともシアトル子ども病院とも縁の深い、あのLainie Freidman Ross。
(Ross関連エントリーは文末にリンク)

この論争について教えてもらった時には
親から子への臓器提供における「心理的な利益」すなわち当ブログで「ドナー神話」と考える説が
提供の自発性にいかに影響しているかということについての論争だろうと
私は勝手に思い込んでいたのですが、なんと、なんと、

親から子への生体間臓器提供は「道徳的な義務」なのだから
他人からの匿名の臓器提供のような利他的な行為と同じように賞賛に値するわけではない……
と主張したGlannon & Ross に対して、

いや、いくら義務だといっても、そこまで言っては言いすぎだろう、
親が当然として子に提供するのも義務とはいえ、そこに愛もあるのだから賞賛してあげたっていい、と
Spital が反論して論争になったというのだから、

沢木耕太郎氏が映画レビューで「親からの提供では選択など問題外」としたことに
目を吊り上げてしまった無知な日本人の私としては、「げげぇっ」と、仰天する。

どうやら親から子への臓器提供は、米国の生命倫理では「道徳的義務」なのらしい。

日本の状況や情報だけで考えると信じられないような事態が
英語圏生命倫理では既に現実となっていることは、
このブログをやりながら何度も見てきたはずなのに、
それでも、思いがけない米国の生命倫理のぶっとび方には、
まだ、こうして驚かされてしまう。

上記のような認識を元に、例えば病院の倫理委が臓器提供を受容する条件として、
Glannon&Rossは「レシピエントの利益 vs ドナーのリスク」検討でよいとするのに対して、
Spitalはドナー1人における「利益 vs リスク」の検討をすべきだと主張する。

(映画では分かりにくいけど、小説「わたしのなかのあなた」では
この点がアナの裁判の争点だった)

堀田氏の論文は、この論争の両者の立場が対立しているように見えて、
その実、両者とも生体間臓器移植のドナーを近親者に限定することを容認している点で、
最初から生体間臓器提供における任意の自発性原則を無視している、と指摘する。

堀田氏の主張を、私の、ごく大雑把な理解と私なりの言葉でまとめてみると、

生体間の移植医療でドナーの任意の自発性が不可欠なのは
それだけドナーへのリスクが大きいためである。

ドナーの任意の自発性を欠いたら生体間移植はドナーに対する単なる暴力になる。
移植医療とは、そういう医療である。

ところが各国で生体間の臓器提供者が近親者に限定されている制度そのものが
普通なら誰も引き受けないであろう、その大きなリスクも近親者なら愛があるから引き受けるだろうし、
愛のある自己犠牲なら大きなリスクを引き受けさせてもかまわないとの前提に立っている。

その制度自体が、近親の愛による提供を当然視し、潜在的ドナーに圧力となって
ドナーの任意の自発性を暗黙のうちに阻害している。

こういう圧力をかけておきながらGlannonとRossは
提供すれば「その圧力から開放される」ことまで「ドナーの利益」としてカウントするのだから、恐れ入る。

果ては、次のような仰天の文言まで飛び出す。

提供しないという母親の決定は、道徳的非難に値するだろう。

それならドナーを近親者に限定したり「道徳的な義務」などと姑息なことを言わず、いっそ、
「子どもに生体間移植が必要になった場合は母親をドナーとするとのガイドラインを作ろう」と
正面から堂々と提言したら、どうよ? と思うよ。私は。 

しかも、この論争、特定のケースを論じているわけではなく、
親から子への生体間臓器提供一般を論じているくせして、
実はホンネは「母親」がターゲットなのだということが、この発言でバレバレ。

注によると、論争の後半になるにつれて
ドナーは”she”とか “her”と女性代名詞で受けられて、
いつのまにか母親が前提とされているとのこと。

やっぱり「ドナー神話」は「母性神話」と繋がっているよなぁ……と再確認させられます。

「ドナー神話」のエントリーで指摘したように、
いずれの神話も愛を盾にとって、美化の対象となる行為を背負わされる人からNOやSOSの声を奪っていく。
まぁ、その口封じのために創作され流布されるからこそ「神話」なわけで。

生体間の臓器提供を近親者に限定するルールは
「リスクが大きいから、よほどのことでないと誰も提供しないだろう」しかし
「近親者なら患者への愛から、その“よほどのこと”としてリスクを引き受ける可能性がある
というところで留まるべきものだと私は思うのだけれど、

米国の論争に見られる「義務」論では、そこから一段さらに
「近親者なら患者への愛から、リスクを引き受けるはずだ」
「患者への愛があれば、親なら自分へのリスクが大きくてもものともしないはずだ」
「特に自己犠牲をいとわぬ母性のある母親であれば、我が身を捨てても子を救うのが当たり前」
と、母性神話を踏み板に、ドナーの任意の自発性原則否定へと飛躍している。

論理を飛躍させるために母性神話が踏み板として必要とされるからこそ、
「母親から子への提供は、しなければ非難に値するほどの道徳的義務である」と主張される時、
父親を含む親一般の話ではなく母親の話へといつのまにか摩り替わっていなければならないのでしょう。

堀田氏が提案している解決策は2つ。

・ ドナーを近親者に限らない。近親者だからといって「提供しなくてもいい」という自発性原則を明らかにすると同時に、じゃぁ、みんなが潜在的ドナーになるけど、みんな、それでいいの、という話になる。

・ みんなで生体間の潜在ドナーになるのは、ちょっと……というなら、そういう移植医療そのものを考え直すべきだろう。

堀田氏は
「移植しか回復手段がない」という人の存在は、いわば「自然の制約」である。
この制約に関する責任は当人にも家族にもない。
と書いている。

移植しか回復手段がない人がいるからといって、
その人に移植を受けさせるための臓器を提供する責任や義務を誰も負ってはいないのは、
癌で命を落とすかもしれない人がいるからといって、
その人の死が誰の責任でもないのと同じことではないか、ということだろう。

移植医療を推進したい人たちは、
「移植しか回復手段がない」とは「回復手段がある」ということであり、
「手段がある以上その人を回復させないことは許されない」という催眠波を
ドナー神話も含めて世間に向けてせっせと送っているような気がする。

愛、愛……と、科学とテクノがステレオタイプの愛を
バナナの叩き売り”的大安売りで連呼する時、まずは警戒感を持ちたい。

「愛」を買ってもらえないとなると、彼らは
「科学的エビデンス」の武器を持ち出して居直るだけのことだと思うから、さ。




(当時の私が背景知識を欠いていたため、このエントリーの理解はとても不十分です。
いま振り返ると、これは理解が全く逆だと感じます。)