沢木耕太郎氏の「私の中のあなた」レビュー

これまた、人に教えてもらった情報で、
朝日新聞沢木耕太郎氏の「私の中のあなた」レビューが掲載されていたそうだ。

以下のサイトにアップされている。



日本臓器移植ネットワーク骨髄移植推進財団
この映画にタイアップしていると知った時に、
おそらく日本のメディアの捉え方はこういう路線になるのだろうと
ほとんど確信したのだけど、全く想像通りのレビューだ。

“こういう路線”とは、つまり
原作となった小説が投げかけている問題が
病気の子どもを救うために人為的に臓器ドナーとして子どもを作ることの倫理性と
臓器提供における子どもの人権であるにもかかわらず、

そこからは敢えて目を逸らして、
「ここまでして病気の子どもを救おうとする自己犠牲と美しい愛の物語」にと
情緒的に問題を摩り替えていく……という路線。

このレビューも、
障害のある子どもの母親の多くが、おそらくは、げっぷが出るほど食傷している
おなじみの“あのトーン”で貫かれている。

献身的・自己犠牲的な親の(特に母親の)美しい愛──。

沢木氏にとっては、
我が子が海で溺れていたり火事の家に取り残されれば、
自分の命を顧みずに飛び込んでいくのが親というものなのだそうな。

親から虐待されたり、殺されたりしている子どもたちのニュースが
沢木氏のところには届いていないのだろうか。

この沢木氏のトーンのように
「愛情さえあれば、どんな献身も自己犠牲も苦にならないはずだ」という“母性幻想”こそが
子育てや障害児の介護に追い詰められる親から悲鳴を封じ、助けを求める声を奪っていると
私はこのブログでことあるごとに訴えてきており、

原作小説を読んだ時にも、その視点から
ここここの2つのエントリーを書いているので、
この点について私が考えることについては、そちらを読んでください。

私は自分が障害のある子どもの親となってから、
こうした「病気や障害のある子どもに献身する美しい家族の物語」においては
その子どもが必ず「天使」に喩えられることに辟易しているのだけど、

沢木氏もやはり、主人公アナの姉ケイトについて「天使のような微笑の美しさ」を語る。

沢木氏にとって、
何の罪もなく病気を背負ってしまった「天使のような」我が子のために
子への愛情から腎臓を提供するのは、親ならば、
「そこには選択という問題は起こりえない」ほど当然のことなのだ。

母親のサラは自分にはそれができないから
「どんなことをしてでも助けよう」と「人工授精まで」したのであり、
彼は“救済者兄弟”を、親の愛を実現するための究極の手段として、
もしかしたら親の臓器提供の意思を別の形で実現する代理提供のようなものとして
捉えているように感じられる。

親はそれでともかく、それが兄弟姉妹であればどうなのだろう、と
一応、答えを出さない形の問いかけで終わってはいるけれど、

しかし、
親から子への臓器提供を「選択という問題は起こり得ない」ほど当然視する点で、すでにして
臓器提供については本人の自由意志によるものとの原理原則について
沢木氏の認識は間違っている。

この原理原則は、特に生体間の場合、たとえ親子の間であっても夫婦の間であっても、
どんな間柄であっても、厳しく守られなければならないものだ。

移植によって助かる可能性のある人の身内に、どんな形であれ、
「臓器を提供するのが当然だ、選択という問題じゃない」などという
プレッシャーがかけられるようなことは絶対にあってはならない。

当人が「嫌だ」という権利が、何よりも優先して守られなければならない。
それが、この小説の主張するところの1つでもある。

しかし、親による提供を当たり前視するのと同様の甘さで(あるいは居丈高さで)、

沢木氏はアナの葛藤について書く際に
「手術を拒むことは姉を殺すことになるかもしれないが」という表現を
無造作に使ってしまう。

「アナの腎臓提供によってケイトの命が救われる可能性がある」ということは
「だからアナが腎臓を提供しないことは、アナが姉を殺すことだ」ということではない。

その区別をつけることなく書かれた「姉を殺すことになるかもしれないが」との一文から、私は
どこかで聞いた「罪もないこの子たちに死ねというのか」という恫喝の匂いを感じる。

「では、誰かの命を救うために、同じように罪もないこの子たちに死ねというのか」という声は
ほとんど聞かれなかったように、

沢木氏もケイトの「苛立ちや怒りや涙」を書きながら、
原作には丁寧にリアルに書き込まれている、アナの肉体に加えられた13年分の痛みや
一家の中での存在感の薄さや、愛されていないと感じる苦しみや自己不全感や
苛立ちや怒りや涙には一切触れることなく、
「さまざまな治療のドナーをつとめてきた」とだけ書く。

「つとめてきた」と表現される時、
それは既に「果たすべき務め」であり「義務」として
姉の臓器庫としてのアナの役割と存在は、そう書く人によって肯定され是認されている。

親ならば提供するのが当たり前だけど、兄弟姉妹ならどうなのだろうという問いかけの答えは
文章のあちこちに巧妙に(あるいは無意識に?)忍び込まされている。

なによりも、このレビューを読んで私が一番びっくりするのは
「病気の子どもを助けるために遺伝子診断でドナーとなる子どもを作る」という行為に
沢木氏がまったく衝撃を受けていないことだ。

それは、当ブログで先日から推測しているように、
多くの日本人にとってあまりにも現実味を欠いた荒唐無稽な話のように思えて、
いくつかの国では既に合法化され、れっきとした現実なのだということが思いもよらず、
映画の中の単なる“空想”として捉えているからだろうか。

それが現実の話ではないという前提に立っているから
そのように生殖補助医療によって臓器目的の子どもを作ることの倫理性については
考える必要を感じないのだろうか。

それなら、もしも氏が、これは紛れもない欧米の現実だと知れば、
このレビューは全く違う視点から書き直されるのだろうか。

しかも、非常に気になることとして、沢木氏は冒頭で
終わり方が全く違って、映画の終わり方の方が優れているから
映画を見る前に先に原作を読まないほうがいい、と薦めている

沢木氏が単なる「アクロバティックな終わり方」と「静謐で落ち着いたもの」と
テクニカルな、または情緒的な印象レベルでの違いと捉えているものは、
本当に、それだけの違いなのだろうか。

それは私たちには、映画が封切りされてみなければ、わからない。

私は一人でも多くの人に
まず、欧米ではこれはれっきとした現実なのだということを知り、
その上で、先に原作小説を読んでから、映画館に行って欲しいと思う。


(欧米での”救済者兄弟”の実態については、
当ブログが把握している範囲の詳細エントリーを文末にリンクしました)


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ネタバレを含みます。物語を知らずに映画を見ようと思われる方にはお勧めしません)