森岡氏「子どものいのち」との見出しでA事件について

前のエントリーで触れた森岡正博氏の「33個めの石」の中で、
Ashley事件について触れられている。

もともと2007年に「労働新聞」に連載されたものなので、
この本の章立ては一つ一つが短い。

その2本分を使って、ごく簡単に事件を紹介し、
介護負担の軽減のためとはいえ、こんな療法を許してしまっていいのか、と
疑問を投げかけているもの。

特に印象的に感じたのは、
ラエリアンのクローン人間誕生騒ぎと、
遺伝子操作による決して成長することのないペット作りの話に続いて、
Ashley事件が取り上げられて、

それら3つの話題が「子どものいのち」という小タイトルでくくられていること。

ここで、 でも 生命 でもなく いのち とされていること。

ここのところの、えもいわれぬニュアンスに、おお……! という感じがして。
同時に、ああ、この微妙なニュアンスは英語には訳し分けられないなぁ……とも。

英語の life には、
いつも生命なのか生活なのか人生なのか、よく分からない悩ましさを感じるし、

本来は機能だけしか見ない医学モデルへの問題提起として出てきたはずの「生活の質」QOL
いつのまにか「生きるに値するかどうか」の指標としての「生命の質」に
言葉そのものは変えずに簡単に横滑りしてしまうような危うさも最近は感じていて、

こんなふうに英語が life 1語を便利勝手に使いまわしているところに
日本語だとどれくらい多様な言葉があるか、ざっと頭に浮かんだだけでも、

生命


いのち

生気
活気
元気

一生
生涯
人生

生活
暮らし
日々の営み

これらがすべて life で表現されているのだから、
森岡氏のタイトルを「子どもの life」と訳してみたとしたら、
「別にAshleyの生命に関わるような介入をしたわけじゃない、
大げさなことを言うな、事実誤認もはなはだしい」と
Diekema医師も父親も怒るだろう。

でも、その子どもに健康上の必要があるわけでもないのに
子どもの身体に医療で手を加えることは
子どもの「生命」に関わらないとしても「いのち」に手を加えること
というのが、森岡氏の小見出し「子どものいのち」の主張だろう。

子どもの身体は、子どもの「いのち」そのものである──。

その思想を背景においてみると、先般の臓器移植法改正議論での
「まるごと成長し、まるごと死んでいく権利」という
あの森岡氏の言葉は、さらに重みが感じられる。

身体は、その人の、いのちそのもの――。

たとえ生命の営みが終わった後にも、身体にはその人のいのちが宿っているから
人々はその身体を粗末にはせず、礼を尽くして葬る。

そこにこそ、侵してはならない身体の統合性・尊厳の問題があるのでは?

そして、たぶん、これは私が勝手に思うことだけど、
生命は1人の人に1つずつしかないかもしれないけれど、
「いのち」というのは世の中の生きとし生けるものみんながその一部であるところの
失われたり、数えたりすることが出来ない、一人ひとりの人間を超えて、もっと普遍的な
大きなものなんじゃないだろうか。

大きな自然のいのちに繋がっているものとして
人の身体は、「いのち」そのものであるがゆえに、
そこに、どんな人のどんな身体であっても侵されてはならない尊厳があるのだと、と。

そういうことが、英語圏のリベラルな生命倫理イデオロギーのアンチテーゼとして
ありじゃないのかなぁ……と。

「33個めの石」でも、
国際学会の言語が英語であることによる「英語帝国主義」の問題は指摘されているし、

以前、森岡氏のブログで、
生命倫理の学会では英語圏の学者が「教えてやろう」というスタンスでくる、
内容においては対等な議論をしていても、相手のその姿勢と英語力の問題で難しい、という問題を
読んだ記憶もあるのだけれど。

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ところで、Ashley事件については、
「いまだ明かされていない事件の真相は細部に宿る」という事件だと私は考えているので、

Ashley事件の事実関係について森岡先生の誤解を、僭越ながら、いくつか指摘しておくと、

・ 2006年の11月にロイター通信がAshleyケースについて報道した時に
発達障害で寝たきりの6歳の女の子の成長を止める治療が開始された」のではなくて、
治療は2004年の夏からスタートして、この時点では、もうすぐ終わるという段階でした。
(ただし、論文と親のブログでは、エストロゲンの投与期間にほぼ1年の長さの違いがありますが)

森岡氏は乳房芽を乳首のことだと解釈しておられるのですが、
父親のブログによると「乳首の脇にあるアーモンド大の組織」が摘出されたのであり、
乳首そのものは残されています。

・ 「いつまでも子どものまま生き続ける」と言う表現。
GUARDIANが使った「時の中にフリーズされた子ども」という記事タイトルや
倫理学者A. CAPLANの「ピーターパン治療」という表現など、
論争当初の報道や議論にも類似の比喩がありましたが、
ASHLEYに行われたのは、厳密には身長抑制と呼ぶべき療法であり、

その療法がもたらす結果を伝えるには、
「いつまでも子どものまま生き続ける」という表現は、誤ったイメージを与えるように思います。
むしろAshleyは「背が低いまま成熟していく」ことを人為的に強いられた、というのが正しい解釈では。