英語圏イデオロギーの専横は生命倫理学だけじゃなかった

先日、某所で某学問の議論を聞いた際に
その議論の中で、「ぐわぇぇっ???」と仰天して思わず身を乗り出した箇所があった。

その学問でもグローバリゼーションが進んでいて、
英語圏の研究が圧倒的な影響力を持っている、

日本では、特にその影響が著しいが
無反省に英語圏の研究動向に引きずられているのはどうか、

むしろ英語圏の研究には強烈なバイアスがあることを
意識しておいた方がよいのではないか、

……と、その領域の研究動向に英語圏イデオロギー
非常に強く反映されていることに批判的な指摘があったこと。

私はものを知らないから、このブログをやりながら、
てっきり生命倫理とか医療倫理の分野だけで起きていることなんだと勝手に思い込んでいた。

改めてちゃんと考えてみれば、そんなはずもないのだけど。


その学問での英語圏イデオロギーのバイアスがどういうものかというと、

人間は変化する存在であると捉える概念や可能性を否定し、
すべてが、もともと存在している能力の有無の問題にされてしまう。

学者の先生方は誰もあからさまには言わなかったけど、
そこで「英語圏イデオロギー」と呼ばれているものは、
ぶっちゃけていえば、脳科学の専横のことだと私は思った。

たぶん、もうちょっと広げると、
「脳と遺伝子だけで人間のことは全て解明できる」と考えるような、
当ブログが「科学とテクノ万歳」文化と呼ばわってきたもののことではないか、と。

そこでは、全体を見ること、部分と部分の関係を見ることが否定されている。
それでは、現実に生きている人間は見えない。
全体を見ることや部分と部分の関係を見る研究の視点を
もっと再評価しなければならん、というお話だった。

それに対しては最後の最後に、
主流派と思われる、私でも本屋で名前をしょっちゅうお見かけするような
偉い先生からチクリと反撃があって、でも、会場全体がほっと安堵したことには、
その辺りで時間切れになった……という感じ。

一見穏やかな口調で、でも、どこかに「思い切って言っちゃうぞ」感の漂った、
あのシンポ、結構、会場が緊張感で張り詰めていた気がする。
実は私には見えないところで、すさまじい火花が散っていたのかもしれない。

私は学者ではないから、そのあたりのことは全く不案内だけど、
日本の生命倫理の分野でも、主流派の偉い先生方はやっぱり
英語圏の“科学とテクノの御用学問”イデオロギー・シンパなんだろうなぁ……。

           ―――――

ちょっと飛躍してしまうようなのだけど、
私は正直なところ、障害学の人たちがなんで、あんなにアジア、アジアというのかが
ずっと、イマイチ理解できずにいた。

英米即物的な身体とか生命の捉え方に対して、

そんなのに盲従することなく、
日本の伝統的ないのちの捉え方、自然や身体、欲望との向き合い方といったものを
提示していくことの可能性だって、あるんじゃないのか……というところまでは、
このブログでも拙いながら考えてはいたのだけど、
(例えば、こことかで)

なぜアジアなのかというところまでは、理解できなかった。

別領域の学問の、この日の議論で、
英語圏イデオロギーのアンチテーゼとしてヨーロッパの研究を云々……というのを聞いた時に

ちょっとだけ、分かった気がした。

私は、どっちの学問も、適当に何冊かの本を読みかじっただけで何も知らないし、
あそこで個々の学者の先生が言っておられたことを完全に理解していたとも思えないから、

ちょっとだけ、

分かった気がしただけ、だけど。