英語圏イデオロギーの専横は生命倫理学だけじゃなかった
先日、某所で某学問の議論を聞いた際に
その議論の中で、「ぐわぇぇっ???」と仰天して思わず身を乗り出した箇所があった。
その議論の中で、「ぐわぇぇっ???」と仰天して思わず身を乗り出した箇所があった。
改めてちゃんと考えてみれば、そんなはずもないのだけど。
人間は変化する存在であると捉える概念や可能性を否定し、
すべてが、もともと存在している能力の有無の問題にされてしまう。
すべてが、もともと存在している能力の有無の問題にされてしまう。
たぶん、もうちょっと広げると、
「脳と遺伝子だけで人間のことは全て解明できる」と考えるような、
当ブログが「科学とテクノ万歳」文化と呼ばわってきたもののことではないか、と。
「脳と遺伝子だけで人間のことは全て解明できる」と考えるような、
当ブログが「科学とテクノ万歳」文化と呼ばわってきたもののことではないか、と。
そこでは、全体を見ること、部分と部分の関係を見ることが否定されている。
それでは、現実に生きている人間は見えない。
全体を見ることや部分と部分の関係を見る研究の視点を
もっと再評価しなければならん、というお話だった。
それでは、現実に生きている人間は見えない。
全体を見ることや部分と部分の関係を見る研究の視点を
もっと再評価しなければならん、というお話だった。
それに対しては最後の最後に、
主流派と思われる、私でも本屋で名前をしょっちゅうお見かけするような
偉い先生からチクリと反撃があって、でも、会場全体がほっと安堵したことには、
その辺りで時間切れになった……という感じ。
主流派と思われる、私でも本屋で名前をしょっちゅうお見かけするような
偉い先生からチクリと反撃があって、でも、会場全体がほっと安堵したことには、
その辺りで時間切れになった……という感じ。
一見穏やかな口調で、でも、どこかに「思い切って言っちゃうぞ」感の漂った、
あのシンポ、結構、会場が緊張感で張り詰めていた気がする。
実は私には見えないところで、すさまじい火花が散っていたのかもしれない。
あのシンポ、結構、会場が緊張感で張り詰めていた気がする。
実は私には見えないところで、すさまじい火花が散っていたのかもしれない。
―――――
ちょっと飛躍してしまうようなのだけど、
私は正直なところ、障害学の人たちがなんで、あんなにアジア、アジアというのかが
ずっと、イマイチ理解できずにいた。
私は正直なところ、障害学の人たちがなんで、あんなにアジア、アジアというのかが
ずっと、イマイチ理解できずにいた。
そんなのに盲従することなく、
日本の伝統的ないのちの捉え方、自然や身体、欲望との向き合い方といったものを
提示していくことの可能性だって、あるんじゃないのか……というところまでは、
このブログでも拙いながら考えてはいたのだけど、
(例えば、こことかで)
日本の伝統的ないのちの捉え方、自然や身体、欲望との向き合い方といったものを
提示していくことの可能性だって、あるんじゃないのか……というところまでは、
このブログでも拙いながら考えてはいたのだけど、
(例えば、こことかで)
なぜアジアなのかというところまでは、理解できなかった。
ちょっとだけ、分かった気がした。
私は、どっちの学問も、適当に何冊かの本を読みかじっただけで何も知らないし、
あそこで個々の学者の先生が言っておられたことを完全に理解していたとも思えないから、
あそこで個々の学者の先生が言っておられたことを完全に理解していたとも思えないから、
ちょっとだけ、
分かった気がしただけ、だけど。