Bad Cripple氏の成長抑制批判から“科学とテクノの催眠術”を考える

“Ashley療法”論争の当初から一貫して批判を続けている
障害当事者Bad CrippleことWilliam Peace氏が
このたびのDiekema医師らの成長抑制論文を読み、
長いエントリーをアップしています。

Growth Attenuation: Ethics of Treatment
Bad Cripple, July 15, 2009


重症児の親を助けてあげようとの医師らの善意を疑うものではないが、
しかし、社会が障害者の権利を認めてこなかった文化の問題は
欠陥を修正するためにあらゆる手段を尽くそうとする医学の論理では解決できない
と主張しています。

主な批判のポイントは以下の6点で、

1. 曖昧な定義で重症の認知障害のある人とそうでない人を区別し、
前者の欠陥を“修正する”ためにあらゆる手段を尽くそうとするものであり、
社会が障害者の市民権を認めてこなかったという問題に対して、医学で解決を図ろうとしている。

2. 重症の認知障害が永続するとの誤診の可能性。

3. 論文は別問題としているが、対象児の選別プロセスそのものが問題の本質。
 (論文の「重症の認知障害」の定義は単なるアリバイでありマジックであるとの
私の英語ブログの一節が引用されています)

4. 何もしないことは最良の結果を生まないと論文は主張するが、
何もしないことは害もなさない。害をなさないことこそ医師がすべきことのはず。

5. これまでの成長抑制は女児に限られており、その歴史と安全性には批判もある。

6. セーフガードは十分にあるとの主張は、優生手術に見られるように、
これまでの障害者の身体に対する侵襲の歴史を省みれば、事実ではない。
このような歴史を無視することそのものが危険な前例となる。


私は、ここしばらく尊厳の問題、法と科学とテクノの問題にこだわっているので、
特に以下の部分が印象的だった。

I cannot help but conclude a specific population or type of child is being selected and considered for growth attenuation while all others are automatically dismissed. This leads me to ask why is it ethically acceptable to attenuate the growth of children with a cognitive disability but no other human beings? What does this mean culturally? To me, this is a strong indication that in spite of what the law may state people with disabilities are not valued.

特定の障害像の子どもだけが選り分けられて成長抑制の対象となり、その他の子どもたちは無条件に対象外となるものと結論せざるを得ない。では、認知障害のある子どもだけが成長抑制の対象となり、その他の人が対象とならないことがどうして倫理的に許容されるのかを問いたい。文化という点から考えて、これはいったいどういうことなのだろう? 私にとっては、これこそ法の規定にもかかわらず、障害者が尊重されていないことの証である。


障害の有無を問わず、全ての人間の基本的人権が法によって保障されているとしたら、
なぜ医療がそこに勝手な線を引くことが許されるのか、という点は
私もAshley事件に感じる大きな疑問の1つ。

生命倫理で持ち出されてくる「最善の利益」だとか「利益 vsコストまたは害」の検討とは
あくまで科学とテクノの適用を前提にするから、そこから話が始まるのであって、
実はその前提以前の議論がご都合主義的に省略されてしまっているのではないか、ということは
この事件の当初からずっと考えてきたのですが、

最近、「尊厳」や「法と科学とテクノ」について、
無知なまま、ぐるぐる考えていることとして、

「尊厳」は実は、その省略されている段階の議論にこそ関わっているんじゃないか、ということ。

でも、あまりにも科学とテクノ万能の幻想にたぶらかされ、操られて、
一般の我々までが科学やテクノの分野の人たちと同じようなものの見方を
無意識のうちに共有させられてしまっているので
そのことに気づけないのではないか、ということ。

そのために、人間の「尊厳」までをも
まず科学とテクノの適用を前提に据えた上で、
そこから議論をスタートすることに抵抗も疑問も抱かなくなっているのではないか。

臓器移植という技術がまず存在し、それは推進するべきものとの前提があり、
そこから人の死を決めなければならない事態と議論が発生するために、
その議論が本来あるべき尊厳や人権という観点から始まるのではなく
移植件数を増やすことを目的とした小手先の議論に限局されてしまうことに
違和感を抱く人がこんなにも少なくなってしまったように。

しかし、科学とテクノロジーはそれ自体の論理によって
本来、自己増殖的に前に前にと進む性格のものだということは
Peace氏がいうように歴史が証明している。

それだけに、科学とテクノが自らの閉じた世界の論理だけで独善的な暴走をしないように
社会はもっと広い視野から規制をかけてきたはず。

そのことに、一般の我々はそろそろ目覚めなければならないんじゃないのか……
科学とテクノの万能幻想の催眠術から逃れるために……

ということを今、ぐるぐると考えている。