生命倫理が「治外法権的な聖域なき議論の土俵」に思えてきた

6月30日のエントリー
米国大統領生命倫理評議会の論考集「人間の尊厳と生命倫理」の第1章の概要をまとめましたが、

実は、その第1章を読んだ時に、何が、とはっきり分からないけど小さな違和感を覚えました。
その違和感が時間とともに大きくなっていき、その正体も少しずつ具体的に掴めてきたように思うので、
頭にもやもやしているものを自分自身が言葉で掴まえるために一度まとめてみよう、と。

私が違和感を持ったのはSchulmanが「尊厳」という概念の曖昧さを指摘している箇所。

生命の終わり、始まり、科学とテクノによる人の能力“強化”の3つについて生命倫理の論争の例を挙げて、
そのいずれにおいても賛成、反対、自己決定の3つの立場それぞれに尊厳を引っ張り出して論じることができる、
したがって生命倫理の概念として「尊厳」には問題がある、と述べています。
その中で生命の始まりの問題として取り上げられている例が以下で

What medical interventions are appropriate to save the life of a critically ill premature infant who is likely to survive, if at all, only with severe mental defects?

仮に救命できたとしても重度の知的障害を負うとみこまれる
重態の未熟児の命を救うためには、どのような医療介入が妥当なのだろうか?

意図的なのかどうなのか、文章が一回余分にひねってあるので文意が曖昧になっていますが、
これは実際の設問は「救うためにはどのような介入が妥当か」ではなく
「救命することそのものが妥当か否か」と問う設問でしょう。
考えうる答えとしてSchulmanがこの後に提示する内容からも、
救命の是非そのものを問題としていることが明らかです。

すなわち、
「人間の尊厳は高度な精神機能に宿るのだから
生涯を通じて非常に重篤な(devastating)知的障害を負った人を
世に送り出すことは間違っている」と主張することも、

また
「万人の生命に等しく尊厳があるのだから
一定の人の命を“生きるに値しない”とみなしてはならず
理にかなったあらゆる救命策がとられなければならない」と説くことも、

さらに
「“尊厳と自律”を尊重して、その道徳的なジレンマの答えを出す権利は親にある」と
論じることも可能である。

ううぅぅぅ―――ん。でも、これ、なんか、ヘンだよ……と思うのです。

まず、設問そのものが
「重度の知的障害のある新生児の救命は
そうでない子どもの救命とは別の基準で考えるべきである」と前提し、
そう前提した時点で(つまり設問を設定した段階で)既に、
第2の「万人の生命に平等な尊厳」を認める立場は否定されているのではないでしょうか。

さらに、そのような設問に対して、
「このように3通りに論じることが可能である」とSchulmanが書くのは
この3つがすべて有効な主張であるという前提があって初めて言えることなのだけど、
そもそも、最初の主張を有効と認めることは、はたして妥当なのでしょうか。

「重い知的障害のある人を世に送り出すことは間違っている」と主張することが是認されるなら
それは「重い知的障害のある人は生まれてはならない」との主張の是認に他ならず、
それは、法的にも社会通念からしても、認められていない見解が
是認されているということにならないでしょうか。

例えば、「妻は夫に殴られても黙って耐えるべきだろうか」という設問を立て、
「妻は夫に従属するものであり、耐えるのがあたりまえだ」と論じることも
「女性にも男性と同じ人権がある。殴るのは人権侵害である」と論じることも、
「それは各家庭で決めることだ」と論じることも
いずれも可能である、だから女性の人権は曖昧な概念だ、と
主張することは可能でしょうか。

個人的に「従属すべきだ」と主張する人は、そりゃ、いるだろうし、
現実にDV被害に遭う女性も後を断たない。

しかし、夫や恋人に殴られる女性が現実にいることは
女性に人権がないことを意味するわけではないし、
「妻は夫に殴られても耐えるべきだ」とか「家庭で決めること」という見解が
法を否定し、社会通念を否定している以上、学者がそれらの見解を是と前提して
「こう論じることも可能である」と主張することは、まず、ありえないから
その先の「従って女性の人権は曖昧で無益な概念」との結論もありえないのだとしたら、

障害新生児が障害を理由に治療を差し控えられている事実があることは
決して「障害のある新生児には生きる権利がない」ことを意味するわけではないし、
「障害の有無によって新生児への救命医療には一線を引くべきである」との前提を担保するわけでもない。

(実はDick Sobsey氏のSingerへの批判女性差別を例に引いて
とても分かりやすかったので、同じことを試みてみました)

もう1つの、生命の終わりをめぐる問いにも同じ問題があるような気がする。

Is it morally acceptable for an elderly patient, diagnosed with early Alzheimer’s disease and facing an inexorable decline into dementia and dependency, to stop taking his heart medicine in the hope of a quicker exit, one less distressing to himself and his family?

アルツハイマー病の初期と診断されて、この先認知症が進み、要介護状態になることが避けがたい高齢患者が、自分にとっても家族にとっても苦しみが少ないように、早く死にたいと望み、心臓の薬を飲むのをやめることは、道徳的に許容できるだろうか?

ここでも、「認知症になって生きることは家族に迷惑をかけることだから
早く死んだ方が本人と家族のため」という判断が設問の段階で、予め了承され含意されていて
「だから十分な介護支援が必要」という現在の社会通念で一般的と思われる方向は最初から否定されています。

これら2つの問いをぐるぐる考えていて、思うのですが、
この2つは、Ashley療法論争の問いを始め、ほかの多くの設問と同じく、ぶっちゃけていえば、
「知的機能が低い人に、そうでない人と違う倫理基準を当てはめることは正当化できるか」という
実は1つの問いなのでは?

それならば、Schulmanが持ち出してくる第1の立場は、
問いの答えを先取りした上に立っているので成立しないことになります。

つまり彼は、第2の立場を予め否定した問いを立て、その問いの答えを先取りした第1の立場を採用するという
2重のマジック操作を行って「正当化できる」というハトを見せているだけで、
「尊厳」が曖昧でどうにでも使える概念だとは、ちょっとも論証していないのでは?

いずれ、もうちょっと、うまく表現できれば……と思うのですが、
私は、ここのところに、(米国のリベラルな)生命倫理のいかがわしさがあるような気がする。

これは私が無知だから思うことなのかもしれないのですが、
過去の歴史を踏まえて法を整備してきた先進国社会はこれまで
法的にも社会通念的にも第2の「万人に平等な権利がある」との立場をとってきたし、
いま現在でも、おおむねの基本は、そこのところに根強く保たれているのではないでしょうか。

ただ、法や社会のシステムの変化が追いつかない速度で科学とテクノロジーが進歩してしまったために、

長い歴史と議論や検討を積み重ねて形作られてきた法や社会システム・通念に
本当は抵触する既成事実への規制が間に合わず、
ある特定の分野で既成事実が一定の数、積み重ねられてしまった。

そのため、法やシステムの方が機能不全に陥っているように見えたり、無力化させられて、
「できるのだから、やるやらないは個人の勝手、それこそ自己決定権」という
上記のSchulmanのいう第3の立場の主張が出てくることとなる。

従来の法や社会システム・通念と
科学とテクノの既成事実が内包している価値観との相克が
現実の社会の中で、とてもリアルな形でいくつも起こっている──。

でも、本当は、米国社会でも、まだ、そこのところでバランスはあやうく拮抗していて
第2の立場を否定する第1の立場は、ごくわずかな人による極論に過ぎないのではないでしょうか。

そういう中で、道徳的な設問であることをカムフラージュに
法と社会通念がいまだに依拠している第2の立場を予め否定する設問が立てられ、
法と社会通念に抵触する第1の立場も妥当な答えとして受け入れられて
いずれの論も成立するから曖昧で無益な概念だと「尊厳」が否定され、
その実、そこで結果的に否定されていくのは万人に平等に認められた「人権」。
つまりは最初から第2の立場を否定する論理によって、さらに否定の論拠が固められてしまう。

もはや、これまで積み重ねられてきた「法の歴史性」など無意味であるかのように
(この言葉、最近教えてもらったばかりなので、半可通で申し訳ないけど、ちょっと使ってみた。
なるほど、こういう文脈で効くんだなぁ……)

法や社会通念を超越したところに科学とテクノロジーの可能性を想定した
ご都合主義で特権的な議論の場を創造し、それによって万人に認められた「人権」を否定して
「知的機能によって人間の間に線を引くこと」を使命として背負っているのが
(科学とテクノの御用学問としてのリベラルな)生命倫理という学問……?

もしかして「特権的な議論の場」というよりも「治外法権的な議論の土俵」を作った?

そういう「治外法権的な聖域なき議論の土俵」として生命倫理という学問は機能している……?