大統領生命倫理評議会の「人間の尊厳と生命倫理」と「おくりびと」

去年3月に米国大統領生命倫理評議会がまとめた論考集「人間の尊厳と生命倫理」。

Human Dignity and Bioethics: Essays Commissioned by the President’s Council on Bioethics
The President’s Council on Bioethics
Washington, D.C.
March 2008 

とりあえず、Introductionの2章を読んだところなのですが、
2章はまだよく理解できていなくて、理解できるには、あと3回くらい読まないとダメかも。

1章の方もまだよく分かっていないのですが、
2章よりは分かりやすかったし、言いたいことも出てきたので
内容と、今の段階で思うことを以下に、メモとして、ざっと。


まずShulmanは、生命倫理の世界で論争になっている人間の尊厳が
どのような主張にでも使える曖昧な概念であることを指摘します。

例えば、
生命の終わりの例で「アルツハイマー病の高齢患者の心臓病治療をどうするか」
生命の始まりの例で「助かっても重篤な知的障害を負うであろう未熟児の救命」
“能力の強化”の例で「辛い記憶を忘れられる薬ができたら、その投与は倫理的に許されるか」

そのいずれの問題でも、賛成・反対・個人の自己決定権の3つの立場それぞれに
「尊厳」を持ち出して主張することが可能だ、と。

では、その尊厳は、そもそもどこから出てきた概念なのか、という点について

1. ギリシア・ローマの古代に、人並みはずれて優れた能力や功績に与えられた名誉・尊敬。
2. 人間は神の姿に似せられて作られたとする聖書の教え。
3. 18世紀カントの道徳哲学。人間の合理的な自律性に尊厳があり、
 なんびとも他者の目的の手段として利用してはならない、とする考え。
4. 20世紀の憲法や国際条約に使用されている尊厳。

3については前のエントリーでも紹介した
What SortsブログのSinger批判でも出てきていた
「自己統治するものとしての人間に内在するものとして尊厳がある」という考え方で、
だから、パーソン論のように、一定の知的能力があることが要件となって、
自己統治できない人間の場合は、外から他者が最善の利益を検討してあげましょう、
という話にもなるのでしょうか。

4については、Schulmanは
1945年の国連憲章以後は、人間の尊厳について理論的な基本合意ができたというよりも
むしろ大戦下での人権侵害を繰り返さない実際的な目的を持った、
ぶっちゃけてしまえばホロコーストを繰り返さないための旗印のようなものだった、と。
(旗印という表現はspitzibaraの解釈)

で、その4つのいずれも(詳細はイマイチ理解できていないのですが)
現代のこれだけ科学とテクノロジーが進んだ時代の生命倫理の論争で役に立つかといえば、
やはり曖昧すぎて、それ自体では使えんだろう、と。

じゃぁ、どうするんだ? というところで
Schulmanが一応とりあえずの提案として述べているのが、
Humanityとして人間の尊厳をとらえてみてはどうだろう、と。

ここでのhumanity は、たぶん、「人道的であること」ではなくて、
「人が人であって、人以外のものではないこと」とでもいった内容ではないかと思います。

科学とテクノロジーの進歩で人間の不完全な自然(our imperfect nature)は
どんどん克服され、強化され、いかようにも変容可能となり、
人間の性質(自然)そのものが操作できるようになってきた中で
しかし、この部分だけは人間が人間たることの侵されざる本質であるがゆえに
バイオテクノロジーでも手を加えてはならない……というコアな部分があるはずで、
それを人間の尊厳なのだと考えてはどうか、と。

      ――――――

なんだか、Peter Singer から
それは人間の思い上がりだ、 speciesism (人類による他の種への差別)だと
批判が出そうですねぇ……というのと、

今現在、クローン人間を作って何が悪い、という人や
人工生命を作ろうとしている人までいることを思えば、
その humanity だって、これまた曖昧で
いかようにも定義可能だとも言えるのでは……というのはすぐに思ったのですが、

1つ、ものすごく引っかかった表現があって、

But in this extraordinary and unprecedented era of biotechnological progress, whose fruits we have scarcely begun to harvest, the campaign to conquer nature has at long last begun to turn inward toward human nature itself.

というところの、 the campaign to conquer nature 自然を征服しようとの取り組み。

それから、ずっと後のところに、上にも引っ張った our imperfect nature 。

こんなふうに、科学とテクノを
「人間の外なる自然を征服」し
「人間の内なる不完全な自然を克服する」手段だと捉えるところから始まる限り、
ここまではOKだけど、ここからは人間の本質に関わるからダメという線は引けないで、
いくところまで、どこまでもいくしかなくなるんじゃないのだろうか……。

それを感じているからこそ、Shulman氏も最後のところで
運がよければ、手遅れにならないうちに、そのラインを引けるだろうし、と言っている……?

         ――――――

頭ではわかっていたことのはずなのに、
やっぱり欧米の感覚では自然は「征服」すべきものなのね……というのが
この文章を読んで、改めて衝撃だった。

NY Timesが映画「おくりびと」を退屈なメロドラマだと酷評しているのを読んだ時にも、
この映画は最初から、ストーリー展開を追いかけて見るような映画じゃないでしょーが……
と毒づきつつ、我と彼との生命観の違いを突きつけられたような気分だった。

若くて死んだり、病気で死んだり事故で死んだり自殺で死んだりと、
人の様々な死に方を点描しつつ、いくつも点描されているからこそ
あの映画全体として描かれるのは

一人の人間の死は他の多くの死の1つに過ぎないし、
一人の人間の生だって所詮は多くの人間の生の1つに過ぎないのだけれど、
その一つ一つはみんな大きな自然のいのちの営みの中にあって、
その大きないのちと繋がって、個々のいのちがここにある……と捉える文化。

個々のいのちが大切なのは、
その個々のいのちが他よりも優越しているからでも
他よりも社会にとって意味があるからでもなく、
個々のいのちが全て、もっと大きないのちとつながり、
その中に内包されて、そこにあるから、という文化──。

ストーリーを追いかけるんじゃなしに、
そういう文化の奥深さをこそ、アンタたちは感じたらどーよ……と
NY Timesの「おくりびと」評にムカつく私の日本人的感性では
自然というのは、やっぱり征服するべき対象というよりも
あまりにも大きく人間の力や計らいを超えたところにあって
征服なんてできるはずもないもの……なんだろうな、と思う。

ちょっと万能細胞がいくつかできたからといって、
ちょっとヒトゲノムが解読できたからって、
それくらいのことで征服できると考えられるほど、ケチなものじゃない。

せいぜいが調和してく対象……いや、きっと対象ですらなくて、
自分がその一部であるところのもの、かな、やっぱり感覚的には。

敵対しているんじゃなくて、繋がっている。そこに自分が内包されている。

だから、人間にとっての不自由や不便もひっくるめて自然はありのままに完全で、
その一部としてここにある私という命も不完全なまま
自然の一部としてここにあることをもって完全でもある──。

Schulmanさんには、な~にを寝とぼけたタワケを、って言われるのだろうなぁ。

でも、な~んだか、なぁ。まだうまく言えないのだけど、

米国のほとんど狂気の沙汰のような科学とテクノ万歳文化の極端と、
がむしゃらな知能偏重、
「頭がよくなければ人じゃない」
「頭さえよくなればハッピーになれる」
「欲望はいくらでも満たせる」
「欲望を満たせないことは悪」的な突っ走り方を見ていると、

そんなにマナジリを決していないで、
もうちょっと、ほら、体の力を抜いて、ゆるゆるといこうよ、
ゆるゆると、のびのびと、おおどかに……と言いたくなる。

もちろん、アメリカの科学者や科学とテクノの利権に群がる人たちに
日本人の自然観・生命観の中から何かを学ぶつもりが、あるわけはないし、

日本にしても、
「国際競争力をつけて生き残るために」の掛け声は
科学とテクノでも経済のネオリベグローバリズムと同じで、
世界中がいずれ現在の米国の狂騒に巻き込まれていく宿命なのだろうから、
そこにさらに慈善資本の功利主義グローバル・ヘルスが世界を席巻しつつあることを思えば
日本だけが後戻りできるわけも、一人独自の道を行けるわけでもないのだろうし。

やっぱり科学とテクノの簡単解決万歳でイケイケ文化に向かっていくのも
もう避けがたい宿命なのかもしれないけど。

でも、その一方で、
日本独自の死生観とか自然観に基づく
日本独自の生命倫理というものがあって、
それを1つの選択肢として提示できるとしたら……と考えてみたりする。