「死の幇助」とは本来ホスピスケアのことだった?

前のエントリーをアップした直後に見つけた記事が
同じくDignitasでの幇助自殺者の病気リストの記事に関して、
「自殺幇助」が「死の幇助」に言い換えられていることに注意、と指摘していたので。

Daily Telegraph紙の宗教欄の編集長 George Pitcherという人が書いたものですが、
Pitcher氏によると、

assisted dying とは長くホスピス運動の中で
医療的介入と安楽な死とのデリケートなバランスを模索しつつ
使われてきた言葉だとのこと。

Pitcherは、今回の英国議会での議論においても
Dignitasで自殺した人の21,2%は死病でなかったとの情報を吟味し、
賢明な判断をするよう、議員に呼びかけています。

Exposed: The Death Loards with a taste for killing
The Daily Telegraph, June 22, 2009


ホスピス関係者が長い時間と努力の末に
緩和ケアの理念と実践を根付かせてきた中で使われてきた言葉が

緩和ケアを尽くすことなく
さっさと見切りをつけて医療によって患者を殺す行為の推進に利用されるとしたら、

それは、いくらなんでも許しがたい……というほどの憤りを感じる。


            ―――――


もう1つ、ついでに、
Dignity in Dying というアドボケイト団体の名称から感じたことを。

例のAshley事件のDiekema医師が最近書いた成長抑制論文
「尊厳は定義なしに使われても無益な概念」だとして
成長抑制は重症児の尊厳を侵すものだとの批判を一蹴しているので、

生命倫理で「尊厳」という概念がどのように議論されてきたのか、
ちょっと知りたいと思い、教えてもらった文献を
とりあえず読み始めたところなのですが、

そこで感じている、そこはかとない予感が
堂々と「尊厳」を名前に含めた、この「死の自己決定権」アドボケイトのDignity in Dyingと重なった。

生命倫理の「尊厳」の議論は、もしかしたら、
こんなに進んだ科学とテクノの可能性を人間に応用する文脈でのみ議論され、
たぶん、どちらかというと否定する声が優勢なのだとしても、

尊厳のある死に方をする自己決定権があるのだから自由に死なせろという文脈での「尊厳」を
議論に持ち込み、定義をあげつらった挙句に、どちらかというと否定するという話は
実はあまりないのではないか……と。

ここでも、また、ある議論しか見えない、
ない議論は、ないことそのものが見えない、という話──?

スミマセン。ろくに読んでもないのに。
予感が当たるかどうかは、もうちょっと読み進んでから、また。