アベコベ

まだ未整理で、あまり論理的に語れないし、
国ごとの違いを区別していないといわれればその通りなのだけれど、

Ashley事件からの2年余り、
ネットで英米の障害児・者をめぐる医療関連ニュースをかじってきて、
最近とても強く感じている違和感があって、

なんだか、なぁ、実はアベコベじゃないのかなぁ……と。

どういうものにアベコベを感じるかというと、

①「死の自己決定権」と「臓器提供の自己決定権」


そんなあたりで、いわゆる「死の自己決定権」論者たちの
「いつ、どのように死にたいかを決めるのは、家族や友人がなんと言おうと
その人本人だけに決めることのできる権利」という主張を
繰り返し読まされていると、

人が生きているのは、家族や友人など多くの人との関わりの中でのことなのだから、
周りの人の思いを無視して自分が勝手に死んでいい、
というものでもないのでは……という感じがしてくる。

その一方、現在、日本の臓器移植法の改正で議論されている眼目の1つ
「臓器が足りないから、本人の意思が不明な場合でも
家族が了解すれば臓器をとってもいいことにしよう」という主張には、

体の尊厳とか全体性を侵されない権利というものこそ、
その人本人に帰属するもので、むしろ、こっちのほうこそ、
家族がなんと言おうと、本人だけに決める権利があるんじゃないのかなぁ、と思う。

「死の自己決定権」と「臓器提供の自己決定権」のそれぞれで
いま声高に主張されていることは、そこはかとなく、アベコベでは……と。


②重い知的障害のある人の医療

Ashley事件では
重い知的障害があることを根拠に医療上の必要のない侵襲が正当化された。

「無益な治療」論は、
どうやらターミナルな状態の人すべてに適用されているのではなく
重い障害のある人であれば、必ずしもターミナルではなくとも
適用されつつあるように思われる。

いずれにしても、重い知的障害のある人に対して、
本来の医療の範疇からは外れた「すごく特別な医療上の判断」が
とても熱心に検討されている。


もしもスタンダードな「普通の医療」が受けられていないのであれば
本当は、まず、そっちの方が重大な問題なんじゃないのだろうか。

特別な医療を議論する必要があるのだとしても、
まずは「普通の医療」が普通に受けられるように保障した上で
次に「すごく特別な医療」が議論されるのが本来あるべき順番だと思うのだけど、

特殊な医療(切り捨てることも含めて)を行う議論にばかり熱心で、
普通の医療が受けられていない大問題の方には
どなたも、あまり興味がないらしいのは、
それって、アベコベじゃないの? と思う。


③「耐え難い苦痛」に対する姿勢

②のアベコベとも重なってくる話で、
自殺幇助合法化論者は「耐えがたい苦痛」を逃れることを正当化の理由としているのだけど、
その苦痛が本当に「耐え難い」ものなのかどうか。

英国の医療で(たぶん他の国でも)知的障害がある患者の痛みは放置されているように、
また、痛みのコントロールの技術を持つ医師が少ないとホスピス医が指摘しているように、

スタンダードな医療における痛みのコントロール
まだまだ改善すべき点があるのだとしたら

「耐え難い苦痛」から逃れたい人に毒物を飲ませて殺すんじゃなくて、
その苦痛を耐えられるものにしてあげられる方策が十分にとられているのかどうか
もっと検証する方が先でしょう、と思うのだけど、

もはや治せない患者には興味を失ったり、
障害の有無や人種、もしかしたら階層による線引きで
本当はコントロールできる患者の痛みを放置しておいて、

今度はその痛みを理由に、患者を医療によって死なせてあげましょう、というのは
やっぱり、それは、アベコベでしょう……と思う。


④親の決定権

米国、カナダの医療において、子どもの場合は
「親の決定権がすべて」という方向に推移しつつあると思われること。

もちろんワクチン接種など公共の利益を優先させようとする場合には
親の決定権を制限する方向に力が働いていこうとしているけれど、
特に障害のある子どもたちの体に社会的理由で手を加えることについては
親の決定権を尊重する方向性が明確になってきていて、

Ashley事件のあったシアトル子ども病院の医師らは
子どもの医療に関しては健康上の必要がないものであっても
「親の決定権で」と主張している。

カナダのKayleeのケースを見ても、
親の決定権は、もはや子どもの生死や臓器提供の判断にまで及んでいる。
(もちろん、このケースでは医療サイドからの誘導があったのだけれども)

子どもは親の所有物なのか、と首をかしげてしまう。

しかし、気をつけておきたいと思うのは
ここでも「親の決定権」が声高に主張され意思決定の正当化に使われるのは
「死なせる」「臓器を提供する」という方向の判断についてのみであって、
「助けてほしい」「生きさせてほしい」という方向で親が意思決定を行おうとしても
病院や医師から「それは無益な治療だからできない」と拒まれるのだから、
ずいぶんとご都合主義に1方向にのみの「親の決定権」。

医療における意思決定の議論が、例えば自殺幇助など、
意思決定能力のある成人においても「自己決定がすべて」ではないというのに、
子どもという弱者に関しては、その命を含めて「親という強者による決定」がすべて。

12歳~14歳になれば mature minor(成熟した未成年)として本人意思が尊重されるのに
それ以前の未成熟な未成年と知的障害のある子どもでは「親の決定権」にゆだねられる。

それ以下の年齢の子どもや知的障害のある子どもこそ、
成熟した未成年よりも成人よりもセーフガードを強力にして保護すべき存在であるはずなのに、
意思決定能力がないから保護する必要がないといわんばかりで、

これは絶対にアベコベだ、と私はいつも思う。


そして、これら、すべてのアベコベに共通しているのは、
結局、経済効率という強いものの都合と論理─―?