日本語の「無理心中」を英語にするとmurder-suicide

カナダに
Alex Schadenberg という人が代表を務めている
Euthanasia Prevention Coalition (安楽死防止連盟)という組織があるのを最近知って、
そのブログを時々のぞいてみたりしているのですが、

そこの記事で
ずっと頭に引っかかっていながら調べようともせずにいた疑問に
ひょっこり答えが見つかった。

日本語の「無理心中」に当たる英語、ここではmurder-suicide 。

なるほど──。

以下の記事の別の箇所には
「一家心中」に当たる a family suicide という表現もあるのだけど、

murder-suicide の方では
わざわざ murder という言葉が入っているのが、ぎくりとさせる。

子どもが自ら自殺するわけではない、
親が子どもを殺害して後に(または殺害すると同時に)親が自殺するのが事実のありようなのだから

本来、これは、ぎくりとさせる表現が使われるべき事実なんだ……ということを考えた。



When Financial Despair Turns Deadly
Euthanasia Prevention Coalition, February 24, 2009


障害のある子どもの親が子どもを殺すと、
日本の世間の人々は大いにショックを受けて
「それでも親か」と激しく指弾するのだけれど、

その割りに子どもを殺した後で親が自殺してしまうと
それは「無理心中」ということになって
こちらは誰も「親が子どもを殺した」とは騒がない。

障害者自立支援法が云々され始めてから
相当な件数の親子心中があったようにも思うのだけれど、
あまり大きく報道されることもなく、
ひっそりと忘れられていく。

障害のある子どもが親によって殺されるという事実そのものは変わらないはずなのに、
前者は「酷い事件」、後者は「哀しい事件」と捉えられる。

それは、
前者では事件を見る人が子どもの立場に立つのに対して、
後者では同じ人が親の立場へと立ち位置をいつのまにか移動させているということではないのか、

そのようなダブルスタンダード
結局親が自殺することで子の殺人が不問に付されているということではないのか、

そこには「心中」を巡る日本人独特の美意識も関係しているのかもしれないけれど、
どこかにやはり「子どもは親の所有物であり、全面的に親の責任」という
抜きがたい意識があるからではないか、

だからこそ、
自分が生きて子どもだけを殺すのは「子どもへの愛情の欠落」だと短絡・指弾される一方で、
親が自分も一緒に死ぬ覚悟で子どもを殺すのは「愛情からの行為」だと
情緒的に許容されてしまうのではないか、

そうした社会のダブルスタンダードは、結局のところ、
障害のある子どもの親に対して暗黙のうちに
「障害のある子どもに対する全責任は親にあるのだから全てを抱え込め。
それができないなら連れて死ね」と
メッセージを送っているようなものではないのか……。

そういうわだかまりを私はずうっと心の中に抱えているので、
経済不況で一家心中が増えているという内容のこのニュースの中で
murder-suicide という表現と出くわした時に改めて考えた。

「心中」「無理心中」に代わる表現が必要なのでは──?