”A療法”には「親が抱え込め」とのメッセージ

久々に、Ashley療法を取り上げたブログ記事が出てきました。

相変わらず、事実誤認に満ちているのですが、
いろいろな雑音が収まった中で読ませてもらうと、
その事実誤認からこそ、また様々なことが見えてくるようでもあり。

書いたのは「60歳になっても若々しくセクシーでありたい」と望む学生さん。
大学の授業で発表された内容に基づいたエントリーと思われます。

Pillow Angels
Looking through the Eyes of an Angel, October 2, 2008

その事実誤認のいくつかを。

Pillow Angel とは医師らが「原因不明の脳損傷」と呼ぶ状態を指して通常使われている名称です。

「通常」使われているのではなく、
“Ashley療法”を考案、我が子に実施し、さらに広めようと提唱している父親と
彼に賛同して我が子にも同じことを望んでいる親たちが使っている
重症重複障害のある子どもたちへの”愛称”です。

こうした両親の姿勢に
障害があるという理由で子どもを不当に赤ちゃん扱いしているとの批判が出ており、
Pillow Angelという呼称そのものが
障害者のステレオタイプや親の決定権の問題という
この事件の本質を象徴しているので
それを広く通常受け入れられている名称だと誤解してしまうと
まったく根本的なところを見誤ってしまいます。


自分が寝たきりになることを想像してみてください。それはもはや夢ではなく最悪の悪夢です。

これは自分では何も出来ない子どもたちが置かれている、とても悲惨な状態で、それでも彼ら天使たちには苦痛や悲惨という概念すらありません。もちろん苦しみも悲しみもなく、彼らにあるのは、ただ終わりのない夢だけなのです。

重症児・者の現実を知らずにAshley事件を議論する人たちに
頻繁に見られる重大な誤解の1つがこれですが、
重症障害があっても好みのオペラを聴くとはしゃいだり、
不快を泣いて訴えることができ、
家族の声かけに大きな笑顔を返すAshleyが
ここでも植物状態と混同されています。

この人は父親のブログをかなり詳細に読んでいるのですが、
そのブログに掲載されたAshleyの大きな笑顔と豊かな目の表情を見てなお、
どうしてその同じ子どもが「終わりのない夢を見ているだけ」だと考えられるのか
私には不思議でならない。

しかし、
60歳になっても若々しくセクシーでいたいという自分の「夢」を語るところから話を始め、
その対極として「自分では何も出来ず何もわからない寝たきり」状態を「最悪の悪夢」と捉えてしまうのは、
とても今日的な社会の価値観をそのまま写し取っているのかもしれません。


Ashleyの両親はギブアップしたかった。もう、これ以上、我が子が苦しむのを見ていることに耐えられなかったのです。そこで彼女がこの先直面する可能性のある他の様々な合併症(complications)を避けるために手術を行いました。

これもまた非常に良く見られる過度に情緒的な「理解」という「誤解」です。

こうしたウェットな目で「理解」されてしまうことに父親自身がイラだって
「この決断は決して、思われているような困難なものではなかった」
「むしろ、たやすい決断だった」と繰り返し強調しているのは
彼にとっては、冷静かつ合理的なコストと利益の差し引き計算に基づく決断であり、
そういう合理的な思考に彼は価値を置く人だからです。

世界的なIT企業の幹部の「合理的な思考」は、
60歳でもセクシーでいることを無邪気に夢見るこの女性よりもさらに
科学とテクノロジーの人体への利用に対して抵抗が少ないものだろうと
私は想像しています。

また、いわゆる“Ashley療法”によって回避が試みられた
「大きな乳房の不快」、「生理に伴う不快」や「成長に伴うQOLの低下」が
どうして重い障害に伴う「合併症」なのかという点も理解に苦しむのですが、

Gunther, Diekema両医師が2006年に発表した論文で
ホルモンによる成長抑制が行われた理由と目的について
「親は思春期のcomplication、特にメンスの始まりを心配していた」
「一般的な思春期の長期的complicationの軽減」と書かれており
Complicationという表現をさりげなくもぐりこませることによって
生理があたかも思春期に起こる医学的異常であるかのようなイメージ操作が行われています。

Ashleyに行われた一連の医療処置には医学上の必要があったかのような
この人やその他多くの人の誤った受け止めは、
医師らの隠蔽の努力が案外に実を結んだということなのかもしれません。

Ashleyが受けた治療には多くの反対がありました。
1.その治療にはリスクが大きすぎる。
2.Ashley自身が選択していない。
3.両親が自分たちで担うべき責任を逃れている

「親が自分たちで担うべき責任を逃れている」というこの人の理解は
とても興味深いと思う。

出ているのは
「Ashley本人の利益のみが倫理判断の対象とされるべきところで
親の利益が本人の利益と混同されてしまっている」という批判なのですが、

この人はそこに自分自身がもともと持っている
「障害児のケアは親が担うべき責任である、そこから逃れることは悪」という思い込みを投影してしまった。
そのために批判の論点が誤って理解されてしまったのではないでしょうか

Ashleyの父親はブログで
極端な話、Ashleyの体重が150キロになることがあったとしても
自分たちは絶対に娘を他人の手に托すようなことはしなかった」と書いています。

Ashleyの父親を、こんな、できずはずのない非現実的なことを決意しないでいられない、
また、それを世の中に向かってわざわざ言挙げしないでいられない気持ちにするものこそ、
社会の中に様々な形で存在する、このブロガー女性の無意識と同じ規範意識であり、
「無限の愛と献身で障害のある子どもをケアする親の美しい姿」という幻想であり、
いわば社会の”美意識”なのではないでしょうか。

そして本当は助けを求めたいのに声を上げることができないところへと
多くの親たちを追い詰めているのもまた、
「障害児のケアは親が担うべき責任で、そこから逃れるのは悪」との社会からのプレッシャーであり、
Ashleyの親の決断に「そこまでしてでも親がケアしようとする深い愛」を見て
感動・賞賛するのと同じ世間の“美意識”なのではないでしょうか。

障害のある子どもの親に必要なのは
世間の無責任な美意識で賞賛されることではなく、
現実の支援の手が差し伸べられることです。

いわゆる“Ashley療法”を批判する人の多くが主張しているのは
そういうことのはず。

“Ashley療法”は
子どもの尊厳や人権を踏みにじってでも
親がさらに子どもを抱え込むための方策として考案されたのだから。

”Ashley療法”の理念とは、世の多くの重症児の親に向かって
「親はどんな手段を使っても、生涯子どもを自分で抱え込め」というメッセージを送り、
「美しい障害児の親の献身」幻想をさらに強化するものなのではないでしょうか。