NY Timesの尊厳死コラム

NY Timesの健康欄記者Jane E. Brody は2月5日に
「優美な旅立ちへの心からの訴え]
A Heartfelt Appeal for a Graceful Exit を書き、

そのコラムへの反響が大きかったとして3月18日にも
「不治の病にターミナルな選択を]
Terminal Options for the Irreversibly Ill を書き、

「自分の死をコントロールする」という表現を使って
自殺幇助の合法化を訴えています。

はっきりとそう主張することは避けて
個別のケースと周辺的な情報の羅列に終始していますが、
2つのコラムで共通して言わんとしているのは、
死に時と死に方は個人が決めてもいいのではないか
そのためには自殺幇助を認めてもいいのではないか
ということのようです。

ただ問題は、どういう状態に陥った場合にそれを認めろといっているかという点。
この2つのコラムから気になる点を挙げると、

①ここでも「末期」という言葉が微妙に拡大解釈されて
植物状態どころか、ただの要介護状態でしかないものまで含められてしまいそうな懸念。

たとえば
生きていることをもう楽しめなくなったとしたら、生きることに何の意味があるだろう? 頭がマシュマロみたいになって、もう人間以下のただの存在に成り果ててしまったら、生きていることに何の意味があるだろう? (2月5日)

(早く死にたい)理由はしばしば実存的である ―― 自分の人生がすべての意味を失ってしまったとの認識、愛する者の不当なお荷物になる懸念、死が長引くのを避けたい気持ち、どうせ間もなく訪れるに決まっている死を先に延ばすためだけに“浪費”される時間とお金を嘆かわしいと思う気持ち。(2月5日)

(自分の死を自分でコントロールしたいと考える人々は)精神が死んでしまっているのに身体だけ生かしておきたくはないのだ。いろんな医療機器につながれて、自分の体の機能を自分でコントロールすることが出来ず、愛する者とコミュニケーションが取れなくなったりという、自分にとっては非人間的だと思える状態で死にたくないのである。
(3月18日)

これらはすべて非常に主観的で抽象的な表現であって、
その人の主観のあり方によっては、
まったく末期でもなんでもなく
病気ですらない些細な障害でも
これらの言葉で捉えられることもありえます。

②Brodyが書いているのは
「自己決定としての自分の死のコントロール」という文脈ではあるのですが、

相当広範囲に様々な状態を含みうる抽象的な言葉によって
「自ら死を早める自由」がこのようにイメージ先行で議論されていけば、
末期ではない、植物状態ですらない一定の要介護状態までが
忌避すべき状態のイメージとして固定化されるのではないでしょうか。

③このような死のコントロールを巡る自己決定権を求める声の高まりと、
カナダのGolubchukケースを巡るPeter Singerの発言のように、
「自己決定できる人が死にたがるくらいの状態なのだから
 自己決定できない人もこういう状態になったら早く死にたいだろう」などと
僭越な代理決定を社会規模で行おうとの声まで起こっていることとは、
無関係ではないでしょう。

④命を長引かせるための時間とお金の“浪費”と、“浪費”に引用符がつけられている点。
あくまでも個人の選択権を主軸に書かれているように思われるBrodyの文章の中で、
この引用符にはSingerと同じく社会のコストへの意識がちらついています。

⑤すでに米国ではターミナル期の自殺幇助の有効な方法について
栄養と水分を断つ餓死よりも酸素の補給を断つ方が早いとか、
ヘリウムを使うのが最も有効な方法である
といった内容の本が出版されているとのこと。
その名も「よい死に方」 To Die Well

⑥終末期の問題(自分の死を早めたいとの希望も含まれます)に対応してサービス提供を行う
ボランティア団体も2つ挙げられています。
Compassion & Choices of Boulder Countyは緩和ケアの考え方で
情報提供をしつつ寄り添うボランティアというイメージですが、
Final Exit Networkはこのコラムによると
苦痛のあるターミナルな患者に限っては
ヘリウムの使用による自殺幇助を唱えているようです。