Katie追加情報と「死んだ方がまし」について

前回のエントリーに引き続き、
10月8日のBBCからKatieケース関連の記事。
“Wait and see the best approach”

医療倫理学Daniel SokolがKatieケースについて論評したもの。

主な論点は
・子宮摘出術が本人の最善の利益にかなうかどうか、全く不明。

・実際に生理が始まるのを待ち、Katieの様子を見てから判断するのがよい。

人の幸福には心理的、情緒的な要因が関わっているので、ただ臓器の機能だけで考えてはならない。

健康な人がそういう状態になった自分を想像してみた場合に比べて、慢性病の人や障害者は自分のQOLを高く評価するとの研究結果もある。

我々の想像力は、未来を想像したり仮定的な状況を考える際に悲観的な図を描く傾向があることに気をつけなければならない。

・このような難しいケースで意思決定を行う人は、道徳的な問題やその他の選択肢などのすべてを検討し、なおかつ強力なジャスティフィケーションができる決定を行わなければならない。

・それらが満たされた場合には、いったん意思決定が下された後は決定者を批判するのではなく支持する方が良い。Katieの幸福は母親の幸福と完全に切り離されるものではないから。

最初の2点はこれまでにも当ブログで指摘してきた点で、全く同感。

最後の2点の代理の意思決定についての指摘には、
英国では10月1日に新しい成年後見法である
Mental Capacity Act 2005が全面施行になったばかり
という事情を考えさせられます。

Sokolの考え方そのものは、
MCAの代理決定の理念に沿ったものなのかもしれませんが、

しかしMCAにおいても、
非治療的な不妊処置については裁判所の判断を仰ぐべきこととされているので、
KatieのケースについてはSokolの主張では十分ではないことになります。

現にこの後、 Katieケースの判断は裁判所に持ち込まれました。

それにしても、
英国医師会はMCAの施行を前に4月の段階で
医療者向けMCAに関するガイダンスを出しており、その中で、
非治療的な不妊治療の他にも裁判所の判断を仰ぐべき事項をいくつか明記しているのですが、

医療倫理学者が何故こうした法的な規定を知らないのか、
とても不思議です。


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しかし、この論評で最も印象的なのは太字にした真ん中3点の指摘でした。

健康な人が想像してみた場合には実際に障害のある人よりも不幸に感じるという研究結果が
具体的にどういうものかは分かりませんが、
これは私自身もずっとそうじゃないかと想像していたことで、

例えば人はよく
「寝たきりになって家族に迷惑をかけてまで生きたくない」とか
認知症でボケるくらいなら、いっそ死んだ方がまし」
などと、日常生活の中で軽い気持ちで口にします。
(当事者や家族が聞いたらさぞ不快でしょうが、もちろんそういう人が不在の場で。)

が、それは非常に確率の低いこととして、
または起こるとしても、ずっと遠い先のことだとの前提で、
もしかしたら、心のどこかで自分だけはそんなことにはならないとタカをくくりつつ、
深く考えずに言っているだけなのではないでしょうか。

現実にそういう事態に陥ってしまった時に、
「本当に死んだ方がまし」とその人が思うかどうか……。

実際にそういう現実を生きている人たちの手記などを読むと、
障害を負った当初こそ死にたいと思うことがあっても、
それなりに生きる希望を見出していく人も沢山あるように思われ
人間とは案外したたかで強い生き物なのかもしれないと
思わせられたりもします。

健康な状態で想像するのと、
実際に障害を負ったり病気になって感じることとは、
本当はずいぶん違うのかもしれません。

それを考えると、
知的機能が低いことに嫌悪をあらわにするトランスヒューマニストらや
Norman Fostらのように「生きるに値しない命」に線引きをしたがる「無益な治療」論者たちは、
実は「自分だったら、そんな状態になるより死んだ方がまし」と恐れる気持ちを、
現実にそういう状態にある人に勝手に投影しているだけ、なのかも?