生命倫理問題に付きまとう「割り切れなさ」について


FRIDAは

生命を尊重する立場(pro-life)と障害女性問題運動家とは
表面的には同じ主張をしているように見えるが、
実際には全く異なった立場に立脚して問題を眺めているのだ、
ということを書いています。

それを読んで、ふっと思ったのは、

これはなんだか、
生命倫理のリベラル派と保守派とが
非常に限られた問題においては反対の主張をしているように見えながら、
それぞれ、その背景でどういう価値観をもっているかを考えると、
実はかなり近いところに立っているように感じられることの
(私にはどちらもレッドネックに思えるというだけのことですが)
ちょうど裏返しみたいな現象なんじゃないかなぁ……と。

一方、
障害を理由に命を切り捨てることに対しては、
Emilioのケースで病院側の「無益な治療」宣告に抗議はしたものの、
FRIDAの中には女性の選択権を尊重する立場(pro-choice)をとる人が多く、
そのことのジレンマも上記FRIDAの文章からは感じられます。

私自身、
「ケア負担を担うのは母親だから、母親に中絶の選択権がある」と主張するLindemann論文
「子育てとは不確定な未来を引き受けること」だとして反論するDreger論文(共にHastings Center report)
を読んだときに初めて、

pro-choiceの立場のフェミニストは選別的堕胎にどういうスタンスを取るのだろう?

と、遅ればせながら、やっと考えがそこに至って以来、
ずっと頭に引っかかっていることもあって、

FRIDAの文章に、そのジレンマの悩ましさを感じた時に、

「神聖な義務」の問題で血友病患者の人たちが直接の抗議行動に出られなかったジレンマ
も思い起こされて、
(これも、ずっと考えるのをやめられないでいるので)

外に向かって白黒きっぱりしたものを言うのが難しく、
グレーで曖昧なところに立ちつくしたまま、
自分の中にあるものを手探りしてみるかのように、
両義性とか迷いとか揺らぎとかの中で、
ぐるぐるしてしまう人の歯切れの悪さ、

その割り切れなさのことを、
やはり、また考えてしまう。

         ―――――――

例えば、

白人と黒人、
男と女、
健常者と障害者、
親と子ども
富者と貧者

といった、権利・利益が衝突する関係を軸に眺めてみた時に、

「神聖な義務」に憤りながら直接の抗議に踏み切れなかった
血友病患者の人たちにあった割り切れなさというのは、
「健常者と障害者」の衝突の中では「障害者」の側に立って憤っている自分が、
「親と子ども」という衝突の中では、「親」の側に立たざるを得ないジレンマ
だったのでは?

(「障害のある子どもの親」もまた、
弱者である子を守る役割を担い、
障害児親子として差別される側に置かれると同時に、
自分自身は子どもに対して抑圧者にもなりうる強者の位置にいる
というジレンマを背負っているのだなぁ……と。)

pro-choiceの障害女性問題活動家の割り切れなさもまた、
「健常者と障害者」「男と女」「親と子ども」の権利の衝突の中で、
一貫して弱者の側に立てないことの悩ましさなのかも?

……ということを考えていると、

いわゆる生命倫理の「リベラル」とか「保守」というのは
主張していることは一見まるで反対のように思えるけれど、
それぞれの背景にある価値観に目を向ければ
権利が対立する上記の関係の中では、結局どちらも前者の側に立っているように思え、

だからこそ、彼らは白黒きっぱりとものが言えているのかもしれず、

(この段で行くと、最もきっぱりとものが言えるのは
「裕福な白人成人男性の健常者」ということになりますね。)

そういう、きっぱりと割り切れた議論だけが進んでいくと、
上記のような利益・権利の衝突の中で
後者の利益はイデオロギー生命倫理の中で見えにくくされたまま、
結局は切り捨てられていくのではないか、と。


それならばこそ、
こういう割り切れなさを抱えている人が、
その割り切れなさの中にあるものを言葉にして
議論の中に投げ込んでいかなければならないのでは……と思うのですが、

なにしろ「割り切れなさ」を語ろうとするのだから、
言葉になりにくく、どうしても歯切れが悪くなって、
それがまた悩ましいのですね。