Fostのゴーマン全開 13日午前のパネル

パネルに登場するのは、この日午前中に講演したFost 、Paris、Wilfond、Magnusの4人。
会場からの質問とコメントに4人が応えるという形で進みます。

最初の質問は、
医師の良心的な決断に反する命令を裁判所が出した例があるか」というもの。
即座にParis(と思われる)が「あるとも。Baby K事件がそうだ」と答えますが、
次いですぐFostが発言。
この内容がすごい。

「裁判所は法的解釈を示すだけで、裁判所の命令には強制力はない。
だから、命令を無視したところで何も起こりはしない。
この患者には移植はしないという私に
裁判官が移植を強要することなどできないのだ。
だいたいアメリカで医師がliabilityを問われたことはない」。


第2の質問者は、まず
治療停止の議論にはパリアティブ・ケアが含まれることが必要」とコメントした後、
保険会社が払わないといったら医師の腰が引けるのが現状。
保険会社が治療内容を決めている状態については?」。

これに対して、またもFostが答えますが、内容は最初の質問への答えと同じ。

「保険会社は支払う気があるかどうかを述べるだけ。
裁判所は法の解釈を述べるだけ。
しかし病院で決定を行えるのは医師しかいないのだ。
どうせ裁判所にとっては停止はすべて悪だし、
死は絶対に患者の利益にならないのさ。
我々は裁判所がなんと言おうと、
現場でgood medicineを実践するのみだね」
(実はぜんぜん質問の答えになっていませんが。)

Parisも「裁判所はauthorizeするのであってorderはできない。
仮にorderされてもFost is right、
命令に納得できなければ、やらない。
それでいいのだ」。
(質問者は裁判所のことなど一言も言っていないのに。)


第3の質問。
治療への姿勢や財力など、親の特性によって子が受けられる治療内容が違うことについては?」。
ここでもFost節が全開。

「コストが問題になるのは当たり前さ。
透析が1ドルでできるんだったら、こんなカンファレンスはしていない。
1日1000ドルもかかるから問題になるんだろ。

IQの低さが問題になるのも当たり前。
誰も無脳症児に移植はしないだろ。
IQが低すぎて(冷笑)利益すら理解できないじゃないか。
さっきMagnusが講演の中でIQの傾斜を取り上げていたが、
要はその傾斜のどこで線を引くかの問題だ。

親によって子の治療が違ってくるのも当たり前だろう。
親に金があったら自前で呼吸器だってつけられるが、その何処が悪い? 
社会が提供するサービスとは教育でも食糧供給でも最低限のラインのこと。
みんなに同じサービスを提供しようと思ったら、誰にも提供できなくなる。
それ以上は、無脳症児への移植にせよ特定の状態での家庭での呼吸器にせよ、
社会がそれは提供しないと決めるのだ」 

これに対してMagnusが2度、間で口を挟みます。

まず
「自分はIQの傾斜に触れたが、それはFostが言うような意図ではなく、
むしろ強調しすぎては問題だと考えている。
IQの“低さ”は相対的なもので、140を基準にすれば120だって低い。
はっきり線を引けるというものではない」。

(これに対してFostは「でもゼロだったら誰もモンクないだろ」と応じます。
さらに司会のDiekemaが「……(聞き取れない)でもモンクないでしょう」と
ジョークを飛ばして会場から笑いが起き、
即座に反応しようとするMagnusをWilfondがさりげなく制止する
という場面がありました。)

もう1つのMagnusからFostへの反論は、
「親の財力とコストの問題だけでなく、もっと幅広く考えるべきだろう。
親の価値観によって子の受ける治療が違い、それが生死を分けることもある。
そういうケースでどう考えるかという問題は難しい。」

その他、会場からの
倫理委員会に誰を入れるかによってバイアスがかかる。
病院のメンバーのみだったら問題がある。
倫理委では誰が子の利益を代弁するのか」との質問に、

Fostは「地域の代表を1人・2人ほど入れればいいだろう」と答え、
Magnusは「倫理委の議論には透明性が必要」と答えていました。
この質問とMagnusの答えは、
“アシュリー療法”論争での倫理委員会の構成メンバーと議論に関する透明性の欠如を大いに考えさせるものです。

またFostは、このパネルの議論の中で、
「重い障害を持った子どもというのは昔から殺されてきたのだよ。
それが80年代から生命倫理の議論が始まり、倫理委員会というものもできて、
ここまで変わってきたのだ。
今では障害を理由に通常の医療を拒まれる子どもはいない。
しかし、生命倫理が主に子の利益を考えるとしても、
それ以外に家族のこともコストのことも考えなければならない」と。

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1つ、とても面白い場面があって、

会場の発言者から、ホスピスの問題が演題テーマに含まれていないと指摘があったのですが、
発言者が「私が気がついていないだけで演題に入っているんだったら謝りますが」と言った瞬間、
司会のDiekemaが早口に「テーマには入っています、演題が隠してあるだけです(会場、笑)」。
その後すぐに攻勢に転じた彼は、
この後のプログラムの誰と誰がホスピス・パリアティブケアに触れるか、まくしたてるのですが、
「ああ、これはきっと天性なんだなぁ……」と感じ入った場面でした。

       
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講演内容からしてもパネルでの発言からしても
、FostとParisはいわば「コスト重視の切り捨て」志向、
それに対してWilfondと Magnusはもう少し慎重な姿勢かと思われます。

またFostとParisが医療の専門性という高みから他の人間を見下す意識をチラつかせていることと、
それぞれ講演でも独善的で悪趣味なジョークを多発していたこととは重なるような気がします。

一方、WilfondとMagnusにはそうした派手なパフォーマンスはありませんでした。

なにか、「粗雑・乱暴VS慎重・丁寧」といった対比が際立って感じられる
13日午前のプログラムでした。

……というか、やはり何より際立っていたのは、Fostのゴーマン。