脳死の次は植物状態死?

シアトル子ども病院・生命倫理カンファレンスでのMagnus講演で、障害児の臓器移植に関する予備的コンセンサスが報告され、その策定に貢献した医師・学者の一覧もプレゼンの最後に紹介されました。その中にRobert Veatchの名前があるのを見て思い出した、去年の記事を。

Experimenting with live patients / Some experts think it’s OK to use vegetative human subjects
Wesley J. Smith (San Francisco Chronicle 2006年10月22日)

「生きた患者で実験 / 植物状態の人体利用OKと考える専門家も」というタイトルからして衝撃的ですが、冒頭、この記事が枕に使っているのは”Hunters of Dune”という新刊SF小説。“Hunter……”では、未来のバイオテクノロジストたちは死体からクローンを作っているのですが、そのブリーディング用“タンク”、実は植物状態の女性なのです。

しかし“Hunter……”を荒唐無稽なSFとばかり笑って済まされないのは、臓器提供者として、また動物の臓器を人間に移植する実験用に、意識のない患者を利用しようと提唱する動きが著名な生命倫理学者の中にあるから。近年、実際にthe Journal of Medical Ethicsにはそのような提言を行う論文が相次いでおり、そのために彼らはまず死の再定義によって、意識のない患者の dehumanizing(非人格化?)を試みている、とSmithは警告しています。

ジョージタウン大学の生命倫理学者Robert Veatchの主張
人間存在の本質は統合された心と体の存在であり……人間が法的、道徳的、また社会的意味を持って存在するためには、これら2つが存在しなければならない。植物状態と診断された人たちには意識がないと考えられるため、息をしている間に埋葬するのは単に美的でないという理由でしないだけで、それさえなければ埋葬しても構わない「息をする死体」に過ぎない。

ベルギーのAn Ravelingienらの主張
もしも永続的植物状態を死とみなすことになれば、そうなる以前に本人が同意さえしていれば、死体での実験と同じ条件での実験利用も合法である。永続的な植物状態を「患者」と呼ぶことはやめるべきだ。「患者」と呼ぶと「生きている死体」を誤って人格化してしまい、議論の妨げとなる。

英国のHeather Draperの主張
永続的植物状態の人はまだ生きていると個人的には考える。しかし、だからといって、そういう状態の人を動物臓器の人間への移植実験に利用していけないわけではない。同意能力のあるうちに、同意能力をなくした場合は研究に参加すると決めておくことにすれば問題はない。植物状態やそれに近い状態で何年も生きるよりも、研究に参加して他者を助ける方が間違いなく良い生き方だろう。

         ――――――――――

一番気に入らないのは、「植物状態やそれに近い状態で生きるより実験利用で人様の役に立った方が良い生き方だ」という部分。生命倫理学者が人の生き方の良し悪しを云々することはない、余計なお世話だ、と思う。

しかも、この中の「それに近い状態」が気になります。原文ではother less-compromised state。厳密にいうと「その他、植物状態ほどには能力が失われていない状態」でしょうか。Draperはめでたく植物状態を死と定義できた暁には、次には植物状態ほどではない状態(これは意識がある状態のことではないでしょうか?)にも死の定義を拡大しようと考えているのでしょう。

移植臓器は決定的に不足しています。このバイオテク・ナノテク時代、人体実験に「生きた死体」が使えればどんなに研究が進むかと夢見る人たちも沢山いることでしょう。(「生きた死体」はES細胞の倫理的ジレンマも解消するのでは……。)社会のニーズが増大すれば、死の定義の線引きはさらに軽度な障害像に向かって移動していくのではないでしょうか?

そういえば、アシュリー事件が議論された1月12日の「ラリー・キング・ライブ」で、中途障害者のJoni Tadaが言っていましたっけ。「忘れないでほしいのだけど、社会というのは、適切なケアの代わりに健康な臓器を摘出してコストが削減できるとなったら、やるんですよ。機会さえあれば、社会はいつだって障害者を犠牲にして大衆の方に向かうのだから

それにしても生命倫理って、実は社会のニーズを先読みし、それに都合のいい理屈をひねり出す錬金術だった──?