「認知症患者」は、みんな「末期」なのか?

先日、ある本を読んでいて、びっくりした箇所。

認知症患者の心の状態を考えれば、道徳観や倫理観をもって何かに従事するのが不可能なのは明らかだ。彼らは世界とのつながりが断たれている。人間であるための条件が、基本的な知的能力テストに合格することだとしたら、残酷な見方ではあるが、彼らはもはや私たちの一員ですらない。だが、みんなそうした考えを必死に打ち消そうとする。認知症の患者を介護していると、患者の意識が明晰になる瞬間を何度となく目にする。介護者にとってそのときの様子は忘れがたく、繰り返し思い浮かべることが、望みなくつらい介護の日々における心の支えとなっている。しかしながら、そうした瞬間が訪れたと思うのはたぶん錯覚なのだ。患者が何か自分から言葉を発したのを、意識の明晰さと解釈しているだけで、本当は何の実体もないのである。(P.56)

「脳のなかの倫理――脳倫理学序説」
マイケル・ガザニガ、梶山あゆみ訳、紀伊国屋書店 2006

著者のマイケル・S・ガザニガは、ダートマス大学、ディヴッド・T・マクラフリン特別教授で、同大学認知神経科学センター長。左脳と右脳の研究で世界的に知られる人だそうです。恐らく認知症の患者の脳については詳しいのでしょうが、“ある病気について”知っていることは“その病気の患者について”知っていることと、決して同じではないのですね。

認知症患者の医療や介護の専門家として日々真面目に仕事に取り組んでいる人が上の一説を読んだら、ガザニガの認知症に対する無知・認識不足には、憤りすら覚えるのではないでしょうか。ここに見られるのは、”アシュリー療法”論争で見られた「重症障害児」と「植物状態」の混同と同じ現象のように思います。

しかし、この後ガザニガは、「元気だった頃に自分がアルツハイマー病にかかったら命に関わる病気の治療は一切受けないとの文書に署名していた女性が、仮に治療可能な肺炎にかかったとした場合に、抗生剤を与えるかどうか」という問題を巡る生命倫理学者の論争を紹介します。

ロナルド・ドゥオーキンは本人の意思を尊重するという立場。
レベッカ・ドレッサーは、「その宣言をしたときには認知症になっても幸せに生きられるのを知らなかったのではないか、自分の認知能力が衰えたことが分からないのだから、彼女は今でも日々の暮らしや活動を楽しんでいるかもしれない」という。

そして、次のように書くのです。

右のような倫理学者の分析を目の当たりにすると、医学や科学の訓練を受けた者はいささか戸惑いを禁じえない。きっとドレッサーは神経科病棟を歩いたこともなければ、アルツハイマー病にかかった本物の患者を世話したこともなく、つぶさに観察したこともないのだろう。もしあれば、認知症の末期にある患者がほとんど何も認識していないことに確信がもてたはずだ。(P.59)

ドレッサーは確かに「本物の患者を世話したこともなく、つぶさに観察したこともない」のでしょう。しかし、ガザニガのあまりに短絡的な「認知症患者」像だって、ドレッサーと50歩100歩。

生命倫理だの医療倫理だの、ナントカ倫理だの、名称は何でもいいですが、こういう問題を議論する人に言いたい。

安易に最重度の人をステレオタイプに使うのは、あまりの無知・無責任ではないか。どんな病気にも障害にも、個別性・多様性があり、「非常に軽度」と「非常に重篤」の間には幅広いグラデーションが存在する。「認知症患者」といい「知的障害者」といい簡単に一くくりにする前に、自分は具体的にどういう障害像の人のことを言っているのか、自己点検してからモノを言ってはどうか。

それにしても、「人間であることの条件が、基本的な知的能力テストに合格することであるとしたら」などという乱暴な前提が、どうしてこんなに不用意に出てくるのでしょう? 


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ついでに、この本について。

著者はこの本で脳神経倫理学というものを提唱しており、脳神経倫理学というのは「病気、正常、死、生活習慣、生活哲学といった、人々の健康や幸福に関わる問題を、土台となる脳メカニズムについての知識に基づいて考察する分野」なのだとか。

“アシュリー療法”論争に出てきていたHughesやDvorskyなどへの疑問から、トランスヒューマニスト(ポストヒューマンとかシンギュラリタリアンとかいうのも、要は同じ)たちの書いたものを少しずつ読んでみているところなのですが、あらゆるテクノロジーを駆使して人間の能力を強化し超人類を作るとか、テクノロジーで病気も貧困も老化も克服できて万人が幸福になるとか……。私には、かつて共産主義が描いたユートピアのテクノロジー版のように思え、「なんだかオメデタイ人たちだなぁ……」と、その人間観の浅薄さに絶句してしまうのですが、この本の著者であるガザニガは、そういう人たちと似たようなことを言いつつ、多少は彼らには見られない“知恵”を見せて一線を画しているかも。

結論としては「各分野の発展に任せて、やりたい人にはやらせればいい。人間ってそこまでバカじゃないから、大局的にはどこかでちゃんとバランスがとれるものだ」と、アダム・スミスの「神の手」みたいなことをテクノロジーについて主張している本のようだ……と、個人的には読みました。政府が介入することへの警戒感が非常に強いので、自分の専門分野の研究だけは邪魔されたくないというのがホンネなのかもしれませんが。