ポニョ

連休最後の月曜日の夜。
夕食後に娘を園(重症心身障害児施設)に送っていった。

この時間はもう、みんな、それぞれベッドに入っている。
スタッフは順番におむつ交換をして回っていて大忙しの時間。

娘をベッドに寝かせ、オムツを替えていると
担当の福祉職Aさん(看護と福祉それぞれ1人ずつ担当者が決まっている)が来た。

「お帰りなさい。連休はいかがでしたか」
「お天気が悪くてねー。外へ出られなかったので……」てな話をしていると、
娘は首をひねり、Aさんに何かを訴え始めた。

「あー、あー」と不自由な体で一生懸命に、にじり寄っていく姿は
いかにも「親に言っても仕方がないのよ、Aさん、オネガイ」と訴えている。

「え? なに? テレビが気に入らないの? チャンネル替える?」とAさん。
「うーん。うーンン」
「違うの? あ、もしかして、テレビじゃなくてDVDにしろ?」
娘の顔はそこで「ピンポーン!」と輝く。

「ああ、そうか。じゃぁ……ポニョにする?」
今度は「やったぁ!」と全身が弾み、
拘縮予防にクッションをはさんだ両足が喜んでキョンキョン跳ねた。

そういえば、さっき玄関を入ったところで出会った職員さんが、
園で「崖の上のポニョ」のDVDを買ったばかりだと話していたっけ。
こいつは、あれを聞いて、あわよくばと狙っていたわけかぁ……。
なるほど、そりゃ確かに、親に言っても仕方が無いわな……。

ここには、親とはかかわりのない、この子の世界があるんだ……と
もう何年も前から何度も確認してきたことを、また痛感する。

「ポニョ」をプレイヤーに突っ込みながら、Aさんは
ミュウさんはこんなふうに自分の思いをはっきり表現してくれるのがいいですね。
また、頼みを聞いてくれる職員と聞いてくれない職員をよく見抜いて
聞いてくれる職員を狙い撃ちにするのが上手い。
すごく喜んでくれるから、こっちも嬉しいし。
だから、ミュウさんは結構いろんな人に好みのDVDをかけてもらっていますよ。
と、話してくれる。

Aさんはベテランなのだけど4月に他の施設から転勤してきたばかりで
実は、この施設もウチの娘も初めて、という人。

わずか数ヶ月で、そこまで観察するAさんのプロとしての力量にも敬服するし
言葉を持たない身で短期間に、そこまで分かってもらったミュウにも
「うちの子、なかなか、やるなぁ」と内心ヤニ下がってしまう。

ジャーン……。
テレビにジブリのマークが大きく映った。

……と、うちの娘は「キャハァ」と一声、
さっと自力でテレビの方に寝返りを打って親に背を向けた。

え……?

いつもならポジショニングをした後で
「じゃぁ、今週は、これだけ寝たら、また迎えに来るから」と指を折って説明し、
納得はしていながらも、ちょっと寂しげな別れのシーンになるところ。

こんなにさっぱりと娘の方から背を向けたのは
6歳で入園して以来、22歳になろうとする現在に至るまでで、初めてだ。

なんちゅう現金なやっちゃ……。
思わず、笑ってしまった。

「……あんたね。もう親の声なんか、とんと聞こえてないかもしれないけどさ、
一応これだけは後々のために言わせてもらっておくと、
今週はいつもよりも短くて、4回寝たら、また迎えに来るから。
あ、まぁ、聞こえていないなら、それでもいいんだけどね」

苦笑しつつ、娘の背中に向かって一方的にしゃべっていると、
テレビの前から立ち上がったAさんが
「ミュウさん、たくましいですよね。親としては、複雑な気持ち?」

うん……複雑なものがないわけではないけど、
でも、実際、考えてみれば、そうなんだよね。

また一週間をここで現実に暮らしてくのは、この子なんだから、
この子にとっては、親と別れる感傷よりもポニョを見ながら今夜を楽しく過ごす方が
現実問題として、はるかに切実に大事なわけで……。

もちろん、痛い目にも会い、辛い思いもし、
悔しかったり腹が立ったり悲しかったり、いろんな思いをしているのだろうけれど、
それでも、言葉で表現できないまま、それらをみんな飲み込む度量を身につけて、
この子は、こうして笑顔で自分を主張し、人と関わりながら暮らしている──。

大人になってからだって、置いて帰られる時には寂しそうな顔になるし
いつもなら、それを自分から断ち切るかのように大きく腕を振り上げて
大げさなほどのバイバイをして見せる子が、

親の方だって、何年たっても、何百回繰り返しても、
娘をここに残して帰っていくことに慣れることができないでいるというのに、

親との別れの寂しさよりも、
現実に今夜を楽しく過ごす戦略をちゃっかり優先させるほどに
いつのまにか精神的に大きな成長を遂げて──。

複雑な気持ち……というよりも、やっぱり、嬉しいよ。
お母さんは、そんな、あんたが、誇らしいよ、ミュウ。

親なんか、もうとっくに帰ってしまったみたいに、
娘の背中はポニョの始まりに固唾を呑んでいる。

この子を残して死んでいけるだろうか……と、
親は必死の思いで自分の胸のうちを探り暮らしているというのに……。

なにやら、カラカラと大笑いしたいような気分になった。

「あのね、ミュウ。お父さんとお母さんは、実はまだいたんだけど、
もう帰ってもいいみたいだから、じゃぁ、帰るね。
いい? 帰るよ。じゃぁ、おやすみ」

なんだよ。背中を向けたままでもいいから、
せめて、ちょっとバイバイしてくれたってバチは当たらないじゃないか……。



「知能が低いから重症児は赤ん坊と同じ」とDiekema医師は言った。
でも、それは、ゼッタイに違う、と思う。

子どもはホルモンや体や知能だけで成長するわけじゃない。
経験と、人との関わりによって成長するのだから。

体と頭だけじゃない。心も成長するのだから。
限りなく成長する可能性を秘めているのは、人の心なのだから。