【訂正とお詫び】アシュリーの手術時の支払い総額の誤りについて

本当に申し訳ないのですが、

拙著『アシュリー事件』の上梓から2年も経って、
きわめて重大な誤りに気づきました。

116ページの12行目(後ろから4行目)、
病院側に支払われた総額が漢数字で「26万3890ドル15セント」となっていますが、

これは「2万6389ドル15セント」の誤りです。

すでに取り返しがつかないほど時間が経ってしまっているのですが、
お詫びして、訂正させていただきます。

申し訳ありませんでした。

【支払い総額に関するエントリー】
WPAS調査報告書 添付資料一覧(2007/6/3)
WPASの調査報告書に関する疑問(2007/6/6)
(支払い金額については、3の項目に)
“Ashley療法”の費用に関する、ありがちな誤解(2009/10/18)


拙著『アシュリー事件』に関する、
その他の追記情報と、注にあげられたリンクについては、
左欄の「拙著『アシュリー事件』について」の書庫にあります。

Rasouli訴訟でカナダ最高裁、医師らの上訴を棄却:治療中止も同意を必要とする治療

当ブログでずっと追いかけてきたRasouli訴訟に
18日、カナダ最高裁から判決が出ました。



週末のこととて、PCの前にゆっくり座っている時間が取れないので、
さっき、以下の関連エントリーにコメント欄で判決文だけリンクしたのだけれど、


結果がどうしても気になってならないので、
ざ~っと目を通してみた。

上訴棄却

結論は[117]から[122]に。




ざ~っと目を通して、目に留まったのは以下の箇所。
(翻訳は全訳ではなく、ごく大まかな概要です)

(75) Wherever one tries to draw the line, it is inevitable that physicians will face ethical conflicts regarding the withdrawal of life support. No legal principle can avoid every ethical dilemma. What may be needed is a practical solution that enables physicians to comply with the law and to satisfy their professional and personal ethics. In this case, for example, the physicians explored the possibility of transferring Mr. Rasouli to a different Toronto hospital. Alternate staffing arrangements within Mr. Rasouli’s present hospital could also be considered. Finally, other physicians qualified to undertake Mr. Rasouli’s care may not hold an ethical objection to continuing the administration of life support. Such practical solutions could go far in averting any ethical conflict.

Rasouli氏に生命維持治療を行うことが自分の医師としての倫理観に合わず、
他の病院に転院もさせられなかったのなら、

病院内で、
同氏の治療をする資格があり、なおかつ同氏の生命維持の続行に抵抗感のない
医療職に担当を交代することだってできる。

どんな倫理的な係争解決にも、そうした実際的な方法が有効であろう。


(76) While the end of life context poses difficult ethical dilemmas for physicians, this does not alter the conclusion that withdrawal of life support constitutes treatment requiring consent under the HCCA.

終末期の医療判断が医師に倫理的なジレンマをもたらすからと言って、
治療の中止もまた医療同意法の下で同意を必要とする治療であるという結論は変らない。


……ということなんだと思うのですが、
まだ全然まともに読んだとはいえないし、
しばらくちゃんと読む時間が取れそうにないので、

もしどこか違っていたら、ご教示ください。

そのうちには判決文をちゃんと読んで、
詳細な論点をなるべく理解するよう努めた上で、改めて書きたいと思いますが、

ずっと気にかかっていた大きな判決が出て、
その結果がそれなりに嬉しいもののようなので、取り急ぎ、速報的に。

ベルギーとオランダの安楽死関連 追記

拙著『死の自己決定権のゆくえ』の刊行後に出てきた
ベルギーとオランダについての情報をいくつか、簡単に追記。


ベルギーの「安楽死後臓器提供」ドナーに精神障害者

ベルギーの安楽死後臓器提供について移植医らが5月に発表したところでは、
DCDの肺提供のうち12.8%にあたる6人のドナーが安楽死後臓器提供で、
3人は重症の神経筋肉障害、3人は精神障害者とのこと。
http://www.bioedge.org/index.php/bioethics/bioethics_article/10676#comments


ベルギーで性転換手術に失望した人が安楽死

ベルギーで9月30日、
性転換手術の結果が期待したものとまるで違っていたと
絶望したNathan (born Nancy) Verhelstさんが安楽死
「耐え難い精神的苦痛」として認められた。
http://www.bioedge.org/index.php/bioethics/bioethics_article/10707


オランダで視覚障害者への安楽死

オランダで初めての障害理由の安楽死
70代の目が見えなくなった女性に。
http://www.news.com.au/lifestyle/health/euthanasia-for-woman-who-could-not-cope-with-being-blind/story-fneuz9ev-1226735207489


オランダの安楽死、12年は前年から13%の増

昨年のオランダの安楽死
5つの地域委員会の報告によると
4188件で、前年から13%の増加。

最も多かったのはガン患者の安楽死で3251件。

42件は認知症患者で
13件は重症の精神障害者だった。

10件で、医師が要件を満たしていないと委員会が判断。
その中の2件は認知症患者の安楽死
インフォームドコンセントを与えることの困難が要因となっていた。

80%近くが
自宅での安楽死を希望した。

大きな声が出なくなるよう自閉症児に手術、ウィスコンシン大で

迷ったのだけど、
やっぱりこの話題はこちらのブログに書くべきか、と。

ただ、これまでのような詳細情報ではなく、
Spitzibara自身のメモのようなものになります。


米国ウィスコンシン大学が、家族の要望を受け
14歳の自閉症スペクトラム障害男児Kade Hanegraaf君に
頻回で大きな音声を伴うチックへの治療として
手術によって大きな声を出せなくした症例を3月に報告し、

Ashley事件と全く同じ論争が繰り返されている。


【関連情報】
ウィスコンシン大学病院の外科サイトの当該記事
http://www.surgery.wisc.edu/research/publication/1650

Salonの記事
http://www.salon.com/2013/09/27/is_surgically_altering_an_autistic_boys_voice_cruel_or_kind/
(私もすぐにこれを思ったけど、
障害者の人権運動の立場からA事件と同じだとの指摘が出ている)

BioEdgeの記事
http://www.bioedge.org/index.php/bioethics/bioethics_article/10703
(これによるとA事件では批判に回ったCaplanが
 今回は、QOLが上がって本人の利益だとして擁護しているらしい)

自閉症の人によるブログAUSTISTIC HOYAの批判記事
http://www.autistichoya.com/2013/09/literal-silencing.html
(興味深いことに、この人は最初にポストした際には
この手術を行ったのはワシントン大学だと誤記したとして、
最初に修正情報が記されている。

ワシントン大はA事件の舞台だったし同じ「W大」だから無理もないけれど、
ウィスコンシン大はA療法の旗振り役の1人、Norman Fost医師の所属先でもある)


驚いたことに、
日本でも似たような手術が1999年から行われているらしい。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jibi1954/51/5/51_381/_pdf

この日本語論文で言及されているボツリヌス菌による治療が失敗したため、
Kadeの手術に踏み切ったという説明が上記大学サイトの論文概要にある。

拙著からご訪問くださった方へ

拙著『アシュリー事件』または『死の自己決定権』から当ブログをご訪問くださった方へ。

【2013年10月29日追記】
拙著『アシュリー事件』を読んでくださってご訪問いただいた方へ

116ページのアシュリーの入院時の総額は誤りでした。
大変申し訳ありません。

詳しくはこちらをご覧ください。



拙著を読んでいただき、ありがとうございます。

せっかく来ていただいたのに、
当ブログの方は休止状態になっており、申し訳ありません。

(休止に至った事情はこちらに ⇒ http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/66669850.html)


新刊の『死の自己決定権のゆくえ』関連は
左の書庫欄の2番目「拙著『死の自己決定権のゆくえ』」に集めております。

『死の自己決定権のゆくえ』の注データについては
以下のエントリーからたどれるようになっております。
http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/66642327.html


2年前の拙著『アシュリー事件』についても、
関連エントリーは左手書庫欄の3番目「拙著『アシュリー事件』について」の書庫に
注データを含め、集めてあります。

時間経過と共にURLのリンク切れも生じていると思いますが、
よかったらご利用ください。

よろしくお願いいたします。


【追記】
その後、新しいブログを始めました ↓
『海やアシュリーのいる風景』

【お知らせ】新しいブログを始めました

しょー凝りもなく(笑)
新しいブログを始めました。


こちらのブログ『Ashley事件から生命倫理を考える』については、
これまで書いてきたことの関連でどうしても書かずにいられないことも出てくるだろうし、
また『アシュリー事件』と『死の自己決定権』という2冊の本の書庫のケアもあるので、
残しておいて、必要に応じて2つのブログを連動させつつ、

『海やアシュリーのいる風景』のほうは
拙著『死の自己決定権のゆくえ』でいえば第3章の問題意識を中心に、
このブログよりも、もう少しゆったりとやっていければ、と思っています。

どうぞよろしくお願いいたします。

「自己責任」へと転嫁されていく、科学とテクノのネオリベラリズムの「自己決定」

9月の頭に報道されたところによると、
2012年、米国の富全体の5分の1が
わずか1%のスーパーリッチに占められていた、といいます。
新記録更新とのこと。



そんなふうに世界中の富がごく一部の超富裕層に集中して行く一方で、
国家は富を分配する機能を急速に失いつつあり、
各国間でも各国内でも格差が広がるばかり。

そんな中で、科学とテクノロジーの発達によって
それまではSFでしかなかったようなことに実現可能性が見え隠れするようになり、

そうした技術は、
それまでの世界ではありえなかった規模の利権構造と繋がってしまっている。

私たちの身の回りでも、夢の新薬とか最先端医療技術に関する情報は
研究が緒についたばかりとか、まだまだ開発途上という段階から
「いまにこんなことが可能になる!」「こんなことだってできる!」と
見切り発車的に華々しく流されて、人々の夢と期待とあおり、
そこに欲望を喚起しては新たなマーケットが創出され、
そのマーケットが次々に消費されていく。



そうしてマーケットが創出され消費されていくたびに
あたかも人の体も能力も命もいかようにも操作可能になったかのような
「コントロール幻想」が広げられていく。

操作コントロールする手段がそこにある以上は
それを利用するかどうかは個々人の自由意志による「自己選択・自己決定」だと、
「自己決定権」を武器にした倫理の論理の露払いの援護を受けて。
(ここに書ききれないけど、他にも「最善の利益」論という武器も)

けれど、例えば出生・着床前遺伝子診断が広がっていけば、
検査がある以上、それを受ける選択をすることは「自己選択・自己決定」だといいながら、
やがて検査が広がるにつれ、検査を受けずに生んだ子どもに障害があった、という人に対して
「無責任だ」と責める声があがってくるのではないか、

あるいは
検査を受けて障害があると分かって「産む」という選択をする人に対して
「そういう産み方をする以上、社会に迷惑をかけずに自分で責任を持って育てなさいよ」
という圧力がかかっていくのではないか。

そうすれば、以下のエントリーでCaplanが懸念しているように ↓
遺伝子診断で激減の遺伝病、それが社会に及ぼす影響とは?(2010/9/10)

社会からは
障害のある子どもやその家族を支援しようという機運は失われていくのだろうし、
ひいては社会から福祉や支援を整備する責任が免じられていくのではないか。

Emanuelが「安楽死やPAS合法化は、痛苦の責を患者に転嫁する」と言っているように、
それと同じことは「死の自己決定権」にも言えるのではないか。

何度か書いてきたように、英国でも米国でも
自殺幇助合法化を求める声は、未だ合法化される手前のところで
介護者による自殺幇助が「愛ゆえの行為」として次々に無罪放免されていく事態を招いている。


9月には米国ケンタッキー州
ガンを患う妻の顔を銃で2度も撃って殺した男性が
「自殺幇助だった」と主張していることが報じられた。


「自殺幇助」と「慈悲殺」と「殺人」の境目は
どんどん曖昧に、ごっちゃになっていく。


「“科学とテクノで簡単解決”文化」とその利権構造が振りかざす「自己決定」には、
「自己責任」に転じていく危うさが潜んでいる、と思う。

それは、とりもなおさず、
富が一部のスーパーリッチに集中し、各国政府はさらに貧しくなる一方の状況下で、
回収できるアテのない資金を国際的な科学とテクノの開発競争に注ぎ込み続ける以外に
生き残りの方途が見えなくなっている各国政府に、
体の良い「自国民の切り捨ての方便」を与えてしまうのではないか。

老いも病気も障害も、介護の問題も貧困の問題ですら、
誰かの体を改造したり、誰かの体を“売り物”として提供したり、
果ては誰かが死んだり、殺したりして、家族の中で解決すべき
「自己責任」の問題に転じていくのではないか。

そうして弱い者たち同士が「自己選択」「自己決定」という名の下に
自ら進んで犠牲となったり、互いを犠牲にするしかなくなる一方で、

各国間では、強いものが生き残るために、
どの国もみんなで自分の首を絞め合ってみせる我慢競争に参戦することを迫られ、
強いものにとってもどこにも救いのない生き残り合戦が繰り広げられていく。

例えばTPPだったり、法人税の切り下げ合戦だったりという形で。
結局はみんなが苦しくなる一方の、誰も幸せになれない世界に向かって――。


……というふうに、
「アシュリー事件」という小さな窓から7年近く覗き見てきた世界は
私の目には映るものだから、

そのことをひたすら繰り返して言い続けてきた、今もこうして言い続けている
このブログには、でも、あまりに希望というものがないのではないか、と
今の私には感じられて、

書いている本人もちっとも元気が出ないので、

この1ヶ月間ぐるぐる考えた結果、とりあえず、
次のエントリーのようなことにしてみようと思います。

よろしくお願いいたします。